Main

November 08, 2010

クライアントモデル

昨日は次女と共に
先日大変お世話になったOPENPATH
認定ファシャワーカー養成トレーニングに
クライアントモデルとして参加させて戴いた。

次女も学業が忙しく、バレエもずっとお休みしていて
家に居てもレポートに追われているか
疲れて爆睡してるか(笑)
一緒に暮らしてはいながら
このところゆっくり彼女と話す機会も無かったので
将来、どういったリハビリテーションの現場で仕事をしていきたいかなど
今、彼女が感じていることに耳を傾けたりと
道中、久しぶりに色々話もできた。

午後の部は7組で、私の担当は
ご自身もバレエをなさっているという女性のトレーニーの方だった。
一斉にインテークとアナリシスが始まり
その上で、トレーニーの方が所見と施術プランを発表
続いて1時間のセッション
そしてシェアリングという流れ。

インテークの際、このセッションに希望することとして
舞台が終わったばかりなので
やはり脚には偏った疲労が溜まっているだろうし
仕事でも脚に負担はかかっているだろうと思うことをお伝えした上で
全体のバランスをニュートラルに整えたいとお話させて戴いた。

アナリシスについての所見を聴くのは
今の自分の身体の状態を
客観的に捉えることもできて参考になったし
だから、どうアプローチしていくかということを伺うと
大雑把なイメージとしてだけれど
どういうところの緊張がどう影響しあって
今、この感じの身体の状態なのだろうな~という
相関図のようなものが浮かんできて面白い。
そして、そういう偏りを残さない身体の使い方を考えた時
今、自分自身でもっと目覚めさせることが必要だと感じている感覚と
それは重なり合うようにも思えた。

バレエをなさっている方なので色々話も早いし
私の言わんとすることもよく理解してくださった様だ。
テキパキとしたセッションの進めかたにも好感を覚えた。
感じたことを率直に口にして下さるので
私も、自分の感じたことを話しやすかった。
体格的にも多分私と同じくらいかと思われる小柄な方だけれど
筋膜へのコンタクトもしっかりしていて
私の好きな感じのタッチ。
気になる点も若干はあったけれど
全体的に、アプローチが必要な部位を
都度バランスをみながらよく捉えていらしたと思う。
舞台の疲れや、その後の仕事での疲れが取り除かれて
ニュートラルに、ストンと繋がる身体の心地よさを感じた。
これから更に経験を重ねられて
きっと、頼もしいワーカーになられるだろうという期待と共に
トレーニングは終了。
心地よく楽しいひと時だった。

次女も、実習やグループワーク、試験に追われ
実技でも結構身体を使うので
背中や肩、首はだいぶ固まっていたようだけれど
自覚のあった背中や肩以上に
胸鎖乳突筋のリリースが効いた~と喜んでいた。
また、彼女自身が臨床実習や日ごろの実習で
色々課題として感じることと
施術を受ける立場で感じたこととに
相通ずることなどもあったりして
学びや気付きも多かったようだ。

会場を後にしたのは夕方だったけれど
次の週末にはレポート提出
続いて試験の次女は、そのまま勉強のために学校へ。
本当に、遊ぶ暇も無い学生生活(笑)
でも、大変と言いつつ
その大変さの中で嬉々としているような姿は
頼もしくもあり、羨ましくもあり(笑)

美しい夕日と川の風景を眺めながら
私も私自身をあとひと燃焼させる
人生の次のステージへ向けて
ゆっくりでもしっかりしたステップを
踏み始めなければな…と思った。

101107_162501

101107_162502

帰りは、電車に揺られながら
透谷の詩をゆっくりと味わった。

今、心に残る2篇


「古藤菴に遠寄す」 北村透谷(透谷全集〈第1巻〉詩,評論及び感想/岩波書店)


一輪花の咲けかしと、
   願ふ心は君の爲め。
薄雲月を蔽ふなと、
   祈るこゝろは君の爲め。
吉野の山の奧深く、
   よろづの花に言傳て、
君を待ちつゝ且つ咲かせむ。

「蝶のゆくへ」 北村透谷(透谷全集〈第1巻〉詩,評論及び感想/岩波書店)


舞ふてゆくへを問ひたまふ、
  心のほどぞうれしけれ、
秋の野面をそこはかと、
  尋ねて迷ふ蝶が身を。


行くもかへるも同じ關、
  越え來し方に越えて行く。
花の野山に舞ひし身は、
  花なき野邊も元の宿。


前もなければ後もまた、
 「運命(かみ)」の外には「我」もなし。
ひら/\/\と舞ひ行くは、
  夢とまことの中間(なかば)なり。

| | Comments (0)

October 31, 2010

Backstage Stories

【メンテナンス・セッション2010秋】
 
舞台を1ヵ月後くらいに控えた日、小川先生のメンテナンスセッションに伺う。
うちの教室では、私だけでなく先生や他の生徒さんなど複数の方が小川先生のお世話になっていて、今回は、教室として予約してあった枠で伺わせていただく運びになったので、私が伺うことが決まった当初はいつものようにはっきりとした持ち込み課題があった訳ではなく、舞台前に仕事で蓄積した疲労を解消したり全体のバランスを整えて戴くつもりでいたのだが、結局、踊りの練習に取り組む中で浮上してくる問題というか、特にその部位にもう少し自由度が広がれば、踊りに出てくる動きの中での身体の扱いやすさが変わるのではないかと常に感じてきたことを、何とか改善していただけないだろうかという、自分の中では半ばだめもとのような気さえしていたリクエストを持参して臨ませて戴いた。
  
例によって、言葉に説明しきれないところは実際にその動きを行いながら、自分は本当はどういう風に動いていきたくて、でも、現実的にどの辺りにどういう支障があると感じられて、結果としてどういう動きや形になりがちであるかということをお話・実演させて戴く。
そして、それは少々大げさな表現かもしれないが、長年の取り組みを経てなお、バレエの動きや形を実現していく上で砦として残る、アンドゥオールや動きの中での骨盤の安定を妨げる制限として存在するように感じられるものだった。
 
一通りの説明と実演の後、仰向けで鼠径靭帯周辺の触察をなさった小川先生が、ちょっと考えてから、「舞台、いつでしたっけ。すぐではないですよね。?」と訊ねられた。
「本番までちょうど1ヶ月位です。」と答えると、まだ少し躊躇われるような感じで、
「靭帯への施術は本番間近だったら、まず行わないものなのですが…」と仰る。
それを伺ってまず、やはり靭帯か…と思った。
全身の筋肉の状態がずいぶんと改善されてなお、そこに硬化した太いゴムチューブのようなものでも存在するかのように感じ続けていたもので、骨盤を立てておくにも、あるいはアンドゥオールして身体を使っていく上でも、それが強靭な力で引っ張り、それと拮抗する部位が常に余分な緊張を強いられているようにも思えていた。けれど、確か、自分の身体に疑問を抱き始めた、ごく最初の頃に読んだバレエ関係の解剖学の本だったかと思うが、靭帯は幼少期であれば比較的容易にストレッチされるけれど、成長期を過ぎてからは難しいというようなことが書かれていたのが記憶にあり、その変化は諦めなければならないもの、望めないものなのだろうと、どこかでずっと思い続けてもいたから。
 
触察をなさって先生が仰るには、確かに左側は普通の人の倍くらいの太さがあるという。周りの組織を巻き込みながら、バレエを始める以前の時間も含めたとても長い年月の間に、自らが育ててしまったものだと思うし、そうやって身体は私を支えていてくれたのだと思うが、その身体に刻まれた歴史は今はもう不要のもので手放したいものなのだ。
 
ただ、靭帯は骨を互いに連結して関節を形成し、ある程度の制限があることによって関節を保護し、脱臼したり異常な動きが生じることを防いでもいるので、そこに変化が起こると、特に直近にパフォーマンスがあったりして、身体がその変化に対応できないうちにいつもの調子で動こうとしてしまったりすると、自身の身体が予測していた可動域を超えて動いてしまったりすることで、色々と不具合や危険があるということなのだろう。
 
1ヶ月あるとはいえ、それはリスキーなことのかもしれないとは私も思った。
けれど、今回は幸いに私の踊りには大きなジャンプは多くないし、それほど激しい動きは無い。
そして、その制限が無ければこう身体を使って、こういう風に立っていって、こういう風に身体をまとめてと、まるで祈るように抱き続けてきた身体操作のイメージだけは、多分人並み以上に膨らんでいるだろうし(笑)、それが、変化への対応を助けてくれるのではないかと思えた。いや、もっと強く、身体が応えてくれることを信じた。
それで仮に、今回自分が対応できずにパフォーマンスが乱れてしまったとしても、自分が求め続けてきたものは、やはり、その制限を越えたところでしか実現されないし、そこを乗り越えないと、多分私は終われないのだろうとも思ったから、「どうなっても自己責任です。施術しちゃって下さい。」とお願いした。
 
時折、動きを求められながら施術が進んでいくと、多分関連があるのだろう、縫工筋の緊張も緩んで膝の横あたりがふわっと解放されて行くのも感じた。
それだけ立派に成長してしまったものがリリースされていくというのに痛みなどはなく、むしろずっと締め付けられていたコルセットが外されるような解放感だけが印象に残った。そして、左右だけでなくその靭帯の影響を受ける部位ということで骨盤周りや腹部、横隔膜やそれに関わる肘なども含めて、かなり広範囲の調整をして下さった。
面白いなと思うのは、その影響のある部位として施術されるところが、常に私が自分自身の動きの中でも、どこか扱い難さがあったり動きに特有の癖が生じさせやすい部位と重なっているということだったことだ。
 
全ての施術が終わって、とにかく数日間はいきなり激しい動きなどせず、少しずつストレッチなどをして、変化を馴染ませていくようなことをよくするようにとのこと。
その場で、ちょっと身体を動かしてみただけでも、例えばルティレの際のアンドゥオールにずいぶんストレスが無くなったように感じたし、脚の動きがずいぶん軽やかになったように感じられた。
 
帰宅してから、早速様子を見ながら色々なストレッチをしてみて、可動域の広がりを実感する。これまで伸ばしたくても伸びなかったところをじわじわとストレッチして、翌日、プリエやタンジュ、アラベスクなどの動きも行いながら変化を確認すると、その全てからストレスが軽減されて、骨盤を保っていやすくなったり、アラベスクの脚がそれまでより軽い力で上がっていくのと、コントロール力がまだ不十分とはいえ、自分が上げて行きたい方向に納まりやすくなっていること、そして身体全体をクロスした状態を保つことも、それまでより格段に楽になっていて、右と左との差も殆ど感じられない。
 
踊りの中で、その変化に対応し活かしていくには、まさにこれからの自助努力あるのみだけれど、20年来の悩みに光明がさした体験でもあったし、これまで蒔いてきた種がようやく実りの季節を迎えたような気持ちになった。
 
【その後1ヶ月ほど】
 
その後のクラスレッスンで本格的に動き始めてみても、靭帯の変化に身体が戸惑うことは無く、むしろどんどん動きやすくなっていったし、短期間で身体のラインもずいぶん変わってきた。先生も、「お尻の形がだいぶ変わったし、身体が楽そうね。」と仰っていらした。
その変わり時の機を活かす様に、要所要所でお直しやアドバイスを下さいながら、同時にどこかその過程をそっと見守って下さっているような面もあったように思う。
長年に渡って私の指導をして下さっているので、新しい感覚を獲得していく際の私の不器用なほどの消化の仕方とでもいうのか、身体感覚やメンタル面の構築のパターンをご存知なので^^;それを尊重して下さったのだろう。
 
更に、CoolBalletでは長谷川先生が舞台に向けて、きっちりと身体作りのレッスンをして下さったので、より自由になった身体を使いこなすコーディネーションや力も徐々に育まれていって、次第にそれが踊りの中でも反映されるようになってきた。
動きやすくなってきたことで、気持ちにも少しゆとりが生じてきたのもあるだろうし、今回は父の手術や様々な事情で例年のようにスムーズに事は運ばなかったこともあって、体力以上に気力の面でギリギリのところでやっとここまで辿りついたような面もあり、これが本当に最後の舞台になるかもしれないという意識が強かったので、身体と心が開くにつれて、10年前にこの教室を立ち上げる準備段階から微力ながらお手伝いをさせて頂いてきた、ある意味では我が子のようにも感じる学びの場への想いや、この20年バレエと共に過ごしてきた全ての時間、ご縁への愛しさとも、感謝とも、あるいは、ある意味では寂しさとも、とても言葉にはし尽くせないような万感の想いが、徐々に溢れ出しはじめて私の踊りの根本から何かが変わりはじめていった。
 
とにかく、その感情ともエネルギーともつかないものを、そのまま放てる自分で舞台を迎えたいという気持ちがどんどん強くなっていく。
レッスンの時間内の数回通せるかどうかの練習だけでは、どうしても放ちきるところまで自分をもっていかれないような気がした。けれど、仕事もあるし家族のこともあるので、今はこれ以上レッスンの時間は増やせないから、自習という形でなるべく家のことに支障が出ない時間を見つけては踊りこむ機会を持つようにした。
その、黙々と孤独な(笑)踊りこみの中で何が一番変わったかといえば、やはり、踊りと想いがより強く結びついていったことだろうと思う。
そして「放ちたい」だったものが、やがて「届けたい」という想いに変わっていった。
愛しさを、感謝を、喜びを、どんなに拙くともありのままの私の全身全霊で。
きっと、ただそれだけが叶えば、もう舞台に思い残すことは無いだろうし、実際に終演後は心からそう思った。
 
【再び、メンテナンス・セッション】
 
舞台まで、もう1週間を切った時期だったが、教室として予約してあった枠で再び小川先生のメンテナンス・セッションへ伺った。
本番は間近だけれど、前回の靭帯のリリース後の経過が順調だったので、それを更に進めて戴く。
その影響を慎重に考慮して下さったのだろう、前回の鼠径部への施術は、リリースの度合いとしてはそれほど強いものではなかったそうだが、それでもずいぶんとパフォーマンスが向上したことや変化への対応にも戸惑いが一切無かったこともあって、小川先生も進めても大丈夫だろうと仰って下さったし、踊りもだいぶ出来上がってきている時期とはいえ、私自身にも一切の不安が無かったから。
股関節や骨盤周辺だけではなく、その変化に全身が協調していかれるように、脊柱に付着している小さな靭帯まで、一本一本リリース。これは、伸ばすというよりは、弾力をつけていくような施術だそうだ。
より立てておきやすくなった骨盤、そして、股関節・膝・踵を結ぶ筋肉の流れからもインに入ろうとするような捻れが軽減しているのが印象的だった。さすがに本番前ということで、膝への施術をしたら大変なことになるそうなので、直接アプローチがあった訳ではないのだが、それでも、よりすんなり素直に繋がり始めている脚のラインの変化は感動的だったし、その変化はどこかで自分では諦めていたものだったので、自分の捉えてきた「限界」をいい意味で覆す体験だった。
 
小川先生、ありがとうございました。
 
【Private Lesson】
 
舞台入り直前に都内某スタジオを借りて、長谷川先生に超練習不足のカプリースをみていただく。
本番間際になって職場で急に辞めてしまった方がいらして、前日もその穴を埋めるためにその方が出るはずだった業務研修に出なければならなくなったり、色々予定外の展開もあったのだが、この予定外にはとても言葉にはし尽くせない感謝の想いを覚えた。
長谷川先生の作品でも、CoolBalletの舞台でもなく…色々な経緯があって、この舞台に関して長谷川先生に甘えることはすまいとずっと心に決めてきて、踊りの中に出てくるパについて部分的にアドバイスを戴くことすら躊躇われるような気持ちでいたし、いつもどおりにレッスンを受けさせて戴き、本番を見届けて戴ければそれで十分だと思っていた。
 
最後の週は、先生ご自身も含めたパ・ド・ドゥ組みのリハーサルも連日詰まっていて、教室でのレッスンも休みになっていたり、クラスがあっても私自身が家の事情で出られない時間帯だったりしたので、舞台入りまでの最後の時間は自習で踊りこんで仕上げていくしかないという覚悟でいたのだが、お忙しいレッスンの合間を縫って長谷川先生がお時間を作って下さり、踊りをブラッシュ・アップしませんかとご提案下さった。
自分からはとてもできないお願いだったし、そう仰って戴いてなお、まだ躊躇われるものがあって、すぐにお返事することも出来なかったのだが、きっと自力で何とか仕上げようとあがく私を、長谷川先生も見るに見かねて手を差し伸べて下さったことと思うし、そのご好意を無にしてはいけない、想いに対して素直に開かれていなさいと、あれこれ思考を重ねる私に、このところの変化の中で目覚め始めたもっと深いところの私が語りかけてくるように感じられて、結局、そのご好意に甘えさせて戴く事になった。
 
少なくとも横幅は舞台で動ける空間にほぼ匹敵するくらいの広いスペース。
贅沢だけれど、ひとつひとつのパを大切に踊るためにも本番サイズが良いとのお言葉だったし、舞台をフルに使うエオリアン・ハープは前回の舞台稽古の際も、日ごろスタジオで練習している時よりかなり移動距離も長く、アントラッセひとつとってみても、そのパが描く必要がある弧はずいぶん大きくて、1回の踊りで必要とする体力もだいぶ違うのを感じたので、やはり、そのスペースの中で踊りこむことが必要だと思った。
潰れてしまっても良いシューズを持ってきて下さいとのお言葉に、それまで練習で履いていてそろそろ限界かなというシューズと、本番用にとってあるシューズ、そしてもうひとつ、履くかどうか迷っているシューズと一応3足持参した。
 
限られた時間だけれど、最初に少しだけリラグゼーションしましょうということで、その日は履き慣れているポアントを履いた状態で横たわった。
身体がリラックスしていくだけではなく、シューズが自分の足の一部になっていくような感覚に、「あれ?いくら履きなれたものとはいえ、この靴こんなに足に沿うように馴染んでたっけ?」と自分でも驚く。
うーん、これは長谷川先生マジックだな…と思った(笑)
その後、ポアントのままバーレッスンを少々。このバーレッスンと、その中でのアドバイスは後に舞台稽古、本番を通じて短時間でスムーズに身体をUPし、同時にポアントの足慣らしもしていくのに大いに役立ってくれた。
 
そして、いよいよ踊りの練習。センターでひとりで踊らなければならない部分もある最初の曲も、シンプルな動きであるだけに、むしろ基本が浮き彫りになるようでもあり、またアームスがいのちみたいな面もあり心配ではあったけれど、やはり、エオリアンハープの方が動きも大きいし、長いし、一曲を通じて途切れないハープの音色のような流れや抑揚みたいなものを表す難しさがあるように感じていたので、そちらを優先した。
前に、部分的にアドバイスを戴く際に、一度だけ携帯に落としてあった映像は見て戴いていたが、まずは音無しでマーキングしながら踊りの流れをお伝えするところから。そのマーキングの時点で既に「今ので、だいたいどこを磨いていけばよいか判りました(笑)」と仰る(滝汗)
 
「移動中の動きが伸びやかなうねりのある踊りでなければいけないと感じられた」と仰っていらしたが、私自身も漠然とそういうイメージは受けつつ、でも、実際のところ、どうしたらその伸びやかなうねりとして動きに表れてくるのかは自分では判らなかった。
ピケ・アラベスクからフェッテしてトンベの一連の動きのピケに立った時のあとひと伸びだとか、シャッセターンの時のもっと沈むようなシャッセ、自分の脚を通り越して乗っていくようなアチチュードやアラベスク、もっと自由に解放されたアームスなどなど、様々なアドバイスを戴きながら何度も繰り返す。
そしてこれは最初の曲の踊りの方もだけれど、「こういうネオ・クラシックな作品は、余りアカデミックにアームスを作ったり、通過するポジションに囚われ過ぎない方が良いと思います」とアン・オーも普段より少し伸ばし気味の肘、板附ポーズの時もアン・オーの形で静止してしまうのではなく、微かに呼吸するような生きたアームスを保っていること、また、ブレで自転する時のアームスも1周する間同じように保つのではなく、アンファスに戻る時に僅かに客席側に膨らませるようなイメージを持つことなど、細やかにご指導を戴いた。
 
そうして、何度も何度も踊りこむうちに、動きの中に生じるうねりに引き出されるように、自分の中から何かエネルギーとも感情ともつかないうねりも生じ始め、それが相互に作用しあうように、踊りと自分との間の距離が縮まり始めた。どこか、ぎこちなく手を繋いでいたような、その踊りと自分との関係が、もっと親和するものになったというのだろうか。四季のバリエーションを踊っているときと同じような感覚が徐々に目覚めてくる。
それにつれて、「どういう風に表そう・動こう」というような意図的なものではなく、身体自身が自然と1曲を通じたうねりに沿う動きの表情を生み出していくような感じになって、それまでで初めて、その踊りを踊っていることが気持ちよいと実感できた。
 
その時間の中で、着こなせない既製服に包まれていたような不安感が消えて、どんどん内側から広がる鼓動の波に動きや気持ちが押し広げられていくようで、踊り自体がいのちを持ってくるようでもあり、私はただ、それに開いて委ねているだけだったようにも思う。

2時間、殆ど休み無く踊り続けて、もうシューズもくたくたになってしまっていたが(なるほど、潰れても良いシューズと仰っていらした通りだ^^;)、不思議と足の辛さも全く無く、むしろ、ポアントを履いているという感覚すらなかった。
 
踊りそのもののブラッシュ・アップはもちろんだけれど、この2時間がこのところ私の中で目覚め始めていたものを力強く表面まで引き出してくれたように思うし、私の「届けたい」に目に見える形を与え、いのちを吹き込み、それはこの作品だけでなく、今回踊る全ての踊りの中に同じ至福の響きを広げてくれた。
 
その後、駅までの道や電車を待つホームでも時間を惜しむように、自分の中心から生じるうねりをのせていくアームスにご指導下さり、ご一緒した時間の全てを抱えきれないほどの宝物で埋め尽くし、踊る喜びを授け、舞台へと送り出して下さった。
 
長谷川先生、ありがとうございました。
 
【バックステージ】
 
そして、舞台入りしてから本番までについては、既に(ごく簡単にだけれど)書いたとおりだが、今回は小川先生・斉藤先生始めOPENPATHの頼もしいワーカーの皆様がバックステージを支えてくださったことを、やはり書き記しておきたい。
 
事前の連絡や希望者の取りまとめ、リハーサルの進行を照らし合わせてセッション・スケジュールを組むような事務的なことは他の方にすっかりお任せしていたのだけれど、間際になって少し微調整が必要だったり、やはり電話やメールではなく実際お会いしてご相談しないと色々行き届かない面も生じてきたので、そこから先は日ごろ両先生と接点の多い私があたった方が、お互いの事情を把握して事を進めていくのに良さそうな感じだったのでバトンタッチさせて戴いた。
小川先生や斉藤先生にはご多忙な時期にも関わらず、舞台稽古初日からホールにお運び戴いてスケジューリングの調整をさせて戴いたり、会場の下見をご一緒したり、セッション・スペースについてご相談をさせて戴いたりした。
生徒だけでも20名を超える希望者があり、ゲストダンサーも含め、リハーサルの進行と出演者の顔ぶれを考え合わせながら、2日間の限られた時間枠の中で、休憩をはさみつつひとり50分のセッションを振り分けるのは、スケジューリングを担当した方も大変だったと思うし、決して便利とはいえない状況の中でそれをこなす先生方にはかなりご負担をお掛けしたと思う。
けれども、ボディワークに触れるのはこれが初めてという方も少なくなかったのだけれど、みな、口々に自分の身体がこんな風に踊りやすく、楽になるのだと驚き、いつものように長時間のリハーサルの後の疲れが残らなかったと言って喜んで下さった。
 
また、本番前日にはこのところ足を痛めていた主要な役を踊る生徒さんが、リハーサル後プリエもできない状態だと仰って、新体操の世界で鍛えられた体育会系忍耐力で日ごろ滅多にそんな風にしんどさを漏らさない彼女が、遠慮がちに「ちょっと診て貰う時間あるでしょうか?」などと私に言うのはよほどの事かと思い、既に、肩と背中に不調のあるゲストダンサーのセッションに備えて控えていらした斉藤先生のところへとんでいって、そのことをお伝えすると、斉藤先生は即座に「すぐみましょう。」と仰って下さり、機転を利かせてその日のOPENPATHでのお仕事を終えられたばかりの小川先生にすぐにホールに駆けつけて戴ける様ご連絡して下さって(この臨機応変な切れの良い判断力には、さすがバックステージのお仕事を数多くこなしていらしたプロだなぁと改めて感じた)、ゲストのセッションも滞りなくできたし、生徒さんのケアも斉藤先生に引き続き、日ごろ彼女のセッションを担っていらっしゃる小川先生もゲストダンサーのセッションを終えられてから、ホールの閉館時刻ギリギリまで行って下さって、翌日の本番は彼女もこれまでで一番のパフォーマンスでグラン・パ・ド・ドゥを踊りきって、楽屋でその様子を見守っていた私たちも大喝采・感涙だった。もし、今回バックステージのサポートが無かったら、あの彼女の素敵な笑顔はみることが出来なかったかもしれないと思った。
 
途中色々あっても、何故かバレエの周辺で結ぶ・繋ぐということに関わらせて戴いている時、最終的には全てが良い結果に落ち着く運びになるような、何か不思議な計らいのようなものを感じることが少なくない。そして、それを齎してくれるご縁に恵まれていることを本当に有難いと思う。
 
他にも色々あって、ギリギリまで何かに試されているような気がしてならない舞台だったが、それだけに、かつて無かったような強い印象と、それを経なければ見出せなかったものを授けられた機会だった。
 
今回は本当に客席が、ステージが、全てがフレンドリーに感じられた。
でも、それは客席が…というより私自身の心の投影だったのではないかと思う。
 
Special Thanks to:
CoolBallet http://www.coolballet.com/
OPENPATH http://openpath.sakura.ne.jp/
 
【余談:緞帳の裏】
 
前回は無かったか、あっても、もっと小さいものだったのではないかと思うが…
本番前の気持ちの昂りを大いに盛り下げる(爆)
緞帳の裏の「火の用心」

101024_180001

カプリースも、四季も、舞台センターで板附だったので
否が応でも目に飛び込んでくる
作品にはおよそ不似合いな、この文字が醸し出す雰囲気には
微妙な心境にならざるを得なかった(笑)

…と言いつつ、四季の開演直前に
面白がってこんな写真を撮っている私も私だが^^;

| | Comments (0)

August 14, 2010

Cross Fade

泣き出しそうで泣き出さない雲を
何処かへ流しさって行く風の口笛
残る蝉の奏でる音色に重なる風鈴の紡ぐ詩
行く夏を見送る微かな寂寥感を背景に
今日は今日の花を咲かせて
散っては咲き、散っては咲く木槿の美しさが鮮やかに映り
コンクリートの隙間から咲く百合は
どうあっても、その美を開花させる生命力で彩る

100814_094801

自然は、いつもCross Fade
夏のどこかに秋があり
緩やかに移ろっていく
見送り迎える「いのち」の足並みを見守り
慈しむように

【メンテナンス・セッション】

小川先生のメンテナンス・セッションを受けさせて頂いて
リリースの際に求められる動きに応えていくと
その動きを指先で捉えた先生が
何度も「動きの質が良い」と仰って下さる。
自分では、そうなのかな?と思いつつ
では、どういうところが良くなったのだろうと
自分で動きや働き方を改めて感覚の中でトレースしてみる。
動きが立ち上がり、ある状態を保ち、また徐々に消えていく
その一連の流れがスムーズな弧を描くような感じになったということと
必要最低限な働き具合や使い分けが
無意識のうちに行われているようなことかな。

どちらかといえば、動きを立ち上がらせていくことは
バレエであれこれ模索してきたので
何もしていないよりは、多くの身体感覚や操作のバリエーションを持ってはいたと思う。
けれど、変化は動きを収束させていく面に於いて表れているように感じた。
むしろ、それは操作を手放し身体に委ねていくこと…
身体が自然と働いていない状態へ戻っていく流れへ
「私」をポーンと飛び込ませるような。
立ち上がらせていくことと収束させていくこと
あるいは自然とクロスフェードされている働きも存在することを
どこかで感じることを繰り返しながら
身体と「私」とでキャッチボールをしているかのような感覚になった。

片側のセッションが終わった時点で一度立って確認があり
その際に、色々頭使って疲れちゃったでしょう?
というような事を仰っていらしたような気がしたが
自分の中では、余りそういう気はしなくて
提示された動きを始めるごく最初の、きっかけの段階で僅かに意識は働くけれど
あとはただ、感じて委ねて響きあっている寛ぎの中にいたという印象で
むしろ調和の心地よさのみが記憶に残った。

身体の一方で、その呼吸と加減を掴むと
反対側で同様のことを行う際には
もう、殆ど特別な意識を必要としない。
ただ、身体と私とを同時に感じている、その絆の中で
動きは緩やかな弧を描いて立ち上がり、調和し合い、消えていく。
「私」が存在するのは、その絆の中であり
私は身体で、身体は私なのだと感じた。

ボディワークのセッションの感じ方も
以前とは少しずつ変わってきているように思う。
何かを求め、探るための体験から
より自然なままの自分の今と呼応し合う体験へと。

| | Comments (0)

June 16, 2010

シンクロ

【シンクロ】

出勤前にカフェでひといきつきながら
携帯でボディワイズの鈴木先生の日記を拝見していた。
このところのマイテーマ「踵感覚を豊かにしよう」とシンクロするような記事に
何か自分のなかで突き動かされるようなものがあったのだろう
すっかりご無沙汰してしまっていたにも関わらず
早朝から、とりとめもないメールをお送りしてしまった^^;

その後、お忙しい中お返事を頂いて
不思議なことに、その前日
クライアントの方との会話から私のことを考えていらしたとのことで
鈴木先生ご自身も私のメールの中の「シンクロ」という文字に
かなり驚かれたのだそうだ。

今、やっと自分の中で輪郭を持ち始めたひとつの身体感覚も
おそらく、かつてセッションを受けさせて頂いた長い時間の中で、
鈴木先生からも様々な形でご教示を頂いていたのだろうと思う。

あの頃、「あ、そうか」と思っても
なかなか、それ以上に広がっていかなかったものが
ご教示戴いた事の詳細が表面的な記憶からは
薄れつつもあるくらい長い時間を経て
頭ではなく、身体が
そこに蒔かれた種からの芽吹きを見つけ出した
そんな気がして…
改めて感謝の想いをお伝えせずにはいられなかった。

『理解』していることと『身体』や『動き』を
繋いでいるかのような『意識』
でも、自覚する以前にすでに働き始めているものに対して
果たして何ができるのだろう
そんな問いをずっと抱いてきた。
いや、多分現在進行形で(笑)

『意識』の及ばない何かに働きかけていくこと
それは、ある方向性を持った
でも、操作するとか意図するというよりも
もっと無心な祈りのような謙虚さの中で
繰り返される『動き』あるいは『行為』
一見、単調なようにも思えるそれらの中に存在する複雑さ、豊かさを
意識は十分に捉えきれなかったとしても
身体は知らず知らずのうちに
そこから漏れた様々なものをも
拾い上げ、立ち上がらせて
あるときふと、機が熟したかのように、ひとつの気付きとして
意識にかえしてくれるものなのかもしれない。
そんな風にも思ったりする。

【読書】

今日もサン=テグジュペリの『城砦』と『手帖』から
いくつか引用。

城砦 3 (サン=テグジュペリ著作集 8)(みすず書房)より

「おまえは、おのれの行動を、最初から理性にもとづかせるわけではない。おのれの理性を行動に仕えさせるのだ。…中略…おまえの仕事は、成し遂げられて、空間と時間のなかに並べおえられたとき、はじめて論理的なものとなる。」

「弱々しいこだま、まだ兆しにすぎない動き、わたしはこれらのものを、力ある語によっておまえのなかでしっかりと結び合わせる。苦役船の営為をつくり出すのだ。」

「諸行為の中に宿って、おまえの筋肉の動きにいたるまで、おまえ自身のすべてに対して作用をおよぼす完璧なる詩。そのようなものがわたしの礼式である」

『手帖』 (サン=テグジュペリ著作集 5)より



おそらく、発見などというものは存在しないだろう。おそらく、発見とはたんに《展示(エクスポゼ)する》、結びつける、整理する、ことでしかないだろう。(演繹は整理へと、諸概念に従ってある種の整理へと向かう)精神分析ではなにもわからない。ただ心の連想作用の回路を発見しただけである。切れ目の無い流れが存在することだけを公式化したにすぎず、この流れのとる方向は不明のままである。科学における概念とは、方向である。その方向こそ創造的な行為だ。それは風景の中に《意味(サンス)》を導入することである。われわれの三段論法は、この意味において、ぼくのいう風景を秩序づけることにしか役立たない。秩序づけたあとで、ものがはっきりと見えてくるのだ。



創造的な作用とは、構造の型を変えることが可能だという点にある。ということは、言葉の面で言葉にあざむかれないようにすること。概念の面では概念にあざむかれないようにすることを創造者に要求する。関係のみが真理である。しかし、複雑ないかなる網の目(レゾー)といえども、さまざまな光のもとで検討されうるものである。



意識とは、それなくしては知性はおそらくほとんど進歩しえないものであるにもかかわらず、知性を超越するものだ。意識は抽象化へと向かう歩みの案内者であるが、その効力はおそらく《統御》することでしかあるまい。



ぼくがいまもってわからないのは、意識についてのもろもろの反省と生命の、先にぼくが言及したような―超越的な統御の―諸問題とのあいだにかけることのできる橋があるか否かということだ。相互作用のない意識と物質との諸関係にかんするような。



生命のみがエネルギーの蓄えを組織化する。

【父】

今日、無事にカーテーテル検査は終了。
手首からの挿入ができず肘の部分からの挿入となった。
今日、検査をして下さったのは
年末入院した時の担当医の先輩にあたる女性の先生だった。
血管の詰まり具合、心臓の状況などははっきりわかって
明日、一度退院し来週半ばの診察時までに
今日説明を受けた3つの選択肢の中から
どうするかを検討することになる。

【薔薇】

昨日、仕事で1日留守にしている間に
ブリーズがまた花開いていた。
そして、わかなの次の花の開くのももう間もなくだろう。

100616_090801

100616_090802

| | Comments (0)

April 29, 2010

筋膜リリース法/ボディワークについて

ブログに直接アクセス頂いて、
HPの方はご覧になっていない方もいらっしゃるようですし
筋膜リリース法やボディワークについてよくお問い合わせを頂くので
ご参考までに私が捉えている限りのことを
なるべく平易にまとめたインフォメーションを載せておきます。
(その都度お返事するのが、ちと大変という無精者ゆえ^^;)
詳しくは専門家の方にお問い合わせ・ご相談下さい。

【そもそも、筋膜ってなあに?】

筋膜とは筋肉・神経・臓器・血管・骨などの
身体の構成要素を包んで繋がりあって全身に広がっている膜のこと。
それは正常な状態では薄く、弾力がある膜で
組織同士がくっつくことなく滑らかに動くことを可能にしています。

その筋膜に何らかの理由で緊張や硬直が蓄積してくると
(偏った体の使い方・姿勢、怪我、あるいは心的ストレスなど)
筋膜の質が低下して、水分を失い、弾力が低下、
粘着性を増してきて、隣り合う組織と癒着してしまったりして
(酷い場合には石のように硬化することもあるそう!)
動きを妨げたり、それによって生じた歪みが
痛みを引き起こす原因となったりするそうです。

【筋膜リリースってどういうもの?】

その弾力性を失ったり、硬化した筋膜に
適切な力と方向性を持った圧を加えることによって
(場合によっては牽引法や施術を受ける側も動きも加えながら)
本来の弾力性のある筋膜の状態に戻すテクニックが
筋膜リリース法です。

ですが、筋膜が全身を包んでいる
ニットのようなものと想像してみてください。
(便宜上の大雑把な例えです)
その一箇所を何かにひっかけてしまって
引き攣れが生じたら、その時ニットはどうなるでしょう?
引っ掛けた部位だけでなく全体に歪みが生じますよね。

つまり、どこか特定の部位に硬化や癒着が起こったとしても
それによってその影響は全身に広がって
そこから離れた部位で痛みを生じさせたり
快適な動きを妨げたりもします。
だから、痛みや不快感、不具合を感じる部位だけにフォーカスしていては
根本的な解決にはならず、
また、同じような身体の使い方や姿勢のあり方を続けていれば
せっかくリリースして一時的に楽になっても
また同じような状態を招いてしまうかもしれません。

ですので、そのテクニックを用いて筋膜を整えながら
痛みのある部位だけではなく身体全体のバランスをみて調整したり
また、ソマティック・プラクティスと呼ばれる
指示された動きを繰り返すようなエクササイズ的なことを通じて
動きや姿勢の癖など、自分のからだについての気付きを促し、
それらを見直すことで
再び、同じような状態を招かないよう
あるいは、より豊かなパフォーマンスの可能性を広げられるよう
個々の状況や目的に沿いながら
「からだについての学び」を行うのが
アイダ・ロルフというアメリカの生化学者が創始した
ロルフィング、あるいはそこから分派したシン・インテグレーションなど
ストラクチュアル・インテグレーション(SI)と呼ばれている
ボディワーク―身体教育のメソッドで
通常2週間程度の間隔をとりながら
10回のセッションで全身の調整を行います。
(10回のセッション後は必要であれば、
「ポスト10セッション」という形で別途セッションを受けることもできます)

【どういう効果があるの?】

私自身が体験から感じたこととして書かせて頂きます。

私はバレエを始める以前から(おそらく小学生くらいの頃から)
骨盤が前傾した状態で日々を過ごしてきました。
傾いていることや歩行が内脚になっていることに自覚はありましたが、
自分の身体はそういうものなのだと思い込んでいたのです。

けれども、バレエを始めて
「何故、私の脚は人並みにも開かないのだろう?」と悩みながら
ずいぶんといろいろな模索を続けました。
そのうち、アライメントが本来あるべき状態になければ
つまり、骨盤が起きていなければ
開くものも開かないのだというところにたどり着いたのです。

しかしながら、どんなにその「本来のアライメント」に自分の身体を戻したくても
その骨盤の状態になってしまう身体の組織の状況があって
(リラックスして寝ても、腰の後ろが床から大きく浮いてしまうくらい)
自分の力ではそれをどうすることもできませんでした。

もう、諦めるしかないのかなと思い始めていた頃に
筋膜にアプローチするボディワークに出合い
それで初めて悪循環のサイクルから
徐々に脱し始めることができたのです。

現在では骨盤の前傾もずいぶんと改善し、
それに伴って身体のラインもだいぶ変わってきました。
また、以前は長時間立っていると
腰が痛くなったりすることもあったのですが
1日立ち続けるような仕事をしていても
腰が辛くなるような事はありませんし
循環も良くなったのでしょう、
身体全体がより健やかになったと思います。

【スパイラル】

何故、上で徐々にと書いたか…
それは、セッションによって解放されたものを
活かし続けていくということは
自分の中に定着してしまっている身体の使い方や姿勢のあり方を手放し
新しい身体で生きるということに
常に目覚めていることなのだと感じているからです。

セッションは施術による器質的な面での解放と
ソマティック・プラクティスを通じて多くの気付きを齎してくれますが
それを自分のものとして根付かせ
自然な感覚になるところまで落とし込んで
日常生活やパフォーマンスの向上に広げていくためには
やはり自分自身がそれを創造していかなければならないのだと思います。

だから、セッションは治療ではなく学びで
与えられるだけではなく
自らもそこに能動的に関わっていく
ボディワーカーと私たちクライアントとが
共に可能性を創造していく場・機会で
セッション・ルームを出た後もその学びは続いているのです。

私は、よくスパイラルをイメージします。
同じところを円環していたものが
ボディワークの機会を得て円環を脱し
その軌道を広げながら螺旋上に上昇するスパイラル。
広げ、上昇させるのが
自分自身の創造力なのだと。


【筋膜リリース法講座って?】

ロルフィングやシン・インテグレーションのセッションは
専門の教育機関でトレーニングを受け
資格を取得したボディワーカー(プラクティショナー)が行うものです。

私が学ばせて頂いたのは
ボディワーク入門―ロルフィングに親しむ103のテクニック

これがボディワークだ―進化するロルフィング」の著者であり
OPENPATHというボディワークスペースを主宰なさっている
シン・インテグレーションの小川隆之先生と
ロルフィングの斉藤瑞穂先生が催されている講座で
ボディワーカーとしての資格を取得するためのものではありませんが
そのボディワークのエッセンスをもとに、基礎的な解剖学も含め、
一般の方でも無理なく活かせるようにデザインされた内容の
専門家や専門家を目指す人だけでなく
その学びを自分や身近な家族などに役立てたいというような人まで
関心を持つ方全てに開かれた場です。

現在、都内や横浜で多数の講座を開かれていらっしゃいます。
また、上記の「ボディワーク入門」には
リリース法についても図入りで分りやすく具体的なテクニックも
紹介されています。
ボディワーク入門―ロルフィングに親しむ103のテクニック

ボディワークをもっと知りたいという方には
以下のサイトもおすすめです。

ボディワークを知りたい!(OPENPATHミラーサイト)
http://openpath.sakura.ne.jp/bodywork.htm

FiLi
http://www.fili.co.jp/

| | Comments (0)

April 15, 2010

徒然

【声】

今日は仕事をしながら
ちょっと疲れてきたり
集中力が落ちてきたと感じたときの
自分の身体の状況を
少し引いた所から眺めてみて
声の出方は、姿勢の状態を省みるガイドにも
なるものかもしれないなと思った。

喉の周囲の狭い部位だけで響くような
何となく通りにくい状態になってきたなと感じる時は
「自分」が中心から、少し前よりに居る・・・とでもいうのだろうか
それは、単に重心ということだけではなく
意識も少し前側にずれたところに居るような。
そして、声も喉や胸の前の狭いスペースで
ループしてしまう感じで、
そういう状態の時は、やはり小さなミスも出やすいようだ。

身体の状態を映す「感覚の鏡」を
またひとつ見つけた。

昨日は音探しと、急遽入った至急のWeb関係のお仕事とで
一日なんとなく忙しなくしてしまったから
今日は、休憩時間はただただボーッとして過ごした。
ランチタイムのカフェは、
やはり人の話し声とか、BGMとか
否応無く音が押し寄せてくるし
好きな曲を聴いたら聴いたで
それなりに意識や感情が旋律に引寄せられてもしまうので
そういう中で頭をなるべく空っぽにしたい時は
携帯の中に入れてあるメディテーション用の音楽が役に立つ。

【仕事の後のレッスン】

さて、仕事関連の話題から
Pointe Magazineのサイトで
こんな記事を見つけた。

Schlepping Through Class?

仕事後のレッスン、
お国は変わっても、みないろいろ模索しているのね。

その日のレッスンは、その日の身体から。
私の場合は、ストレッチ以前の心身のほぐしが欠かせない(笑)

【ストレッチ標語?】

上の記事でストレッチという文字を目にしたのと
このところ、気になっている「桃ラー」が
何故か頭の中で結びつく。

20100415
やはり、少々頭壊れ気味か(爆)
明日は少しのんびり過ごそう^^;

| | Comments (0)

February 22, 2010

Ballet:Lesson Notes #128

【レッスン】

週3ペースのクラスレッスンのリズムも
身体にも、時間配分の面でもようやく馴染んできて
ある程度、間をおかずにレッスンができることが
今は、いい感じで作用しているように思う。
また3月後半から4月上旬にかけては
仕事の方が忙しくなりそうだから
今、この時期に、私の中で形になり始めているものを
しっかり吸収しておきたいなと思う。

この間、今の先生に師事し始めて何年になるのかなと
改めて考えてみたら
この4月で17年になることに気付いた^^;
小さい子どものうちからであれば
そういうことも少なくは無いかもしれないけれど
生涯のうち、それだけの長い時間を
お互いの人生が関わりあう関係性というのは
やはり、なかなか無いご縁なんだろうなと思う。
きっと、最初に私の身体を見たときは
どうしたものかと途方に暮れられたことだろう^^;(滝汗)
実際、今目の前に当時の私が居たら
私自身がそう感じそうだから(笑)

それから、長い年月を経て
その教え子の一人として
先生の注いだ情熱や愛情に
報いることができているのだろうか…と
ぼんやり考えた。
感謝の想いは、やはり、踊りという形で表したい。
今年は特に、そう思う。何故だか。

レッスンが終わってから今日も冬の練習。
最初は、アンサンブルの方と一緒だったから
とりあえず、音と動きの配分を確認するような感じで。
その後、他の方の練習が入って
少し間をおいてから、今度は一人で
私のパートの部分を見て頂いた。
強く居るところ、そしてアロンジェで柔らかく広がっていくところといった
メリハリの部分についてのアドバイス
エカルテに・ルルヴェ・デブロッペの前のポーズは
デリエールにポゼしたポーズから
4番アラベスクに変わって^^;
その前の、裏でピケの連続からシェネと続いた
動きの中から、ピタッとそこに治まって
更に、そのアラベスクからエファセにルルヴェ・デブロッペに
しっかり繋いでいくには、少しスタミナもつけないとな…と思った^^;
回り込んで走るところの、ちょっとしたコツ
袖にはける前に、1回ストゥニューとアームスの動きが加わった。
フルにレッスンした後というせいもあるだろうけれど
やはり、こうして踊りの練習が入るようになると
普段のレッスンとは体力の消耗度が違う^^;


【Tree of Knowledge】

今週から読み始めているのは
知恵の樹―生きている世界はどのようにして生まれるのか (ちくま学芸文庫)
知恵の樹―生きている世界はどのようにして生まれるのか (ちくま学芸文庫)

オートポイエーシス理論の初歩的で原理的な入門書ということで
いきなり、オートポイエーシス―生命システムとはなにか
は、ちょっと厳しいかと思うし
まずは、このあたりからゆっくり租借して読み始めるのが
私には程よいかなと思って^^;

これは、高校生にも読んでもらいたいと序文があるとおり
倫理学の訓練も、生物学の知識も必要なく
「いかにして知るのかを知る」という概念を
判りやすく、しかもフレンドリーな文体で綴られていて
勉強するというより、
理科系の講義にワクワクした
高校生の頃の感覚を、どこかで覚えながら読んでいる。

最初の方に、

ぼくらは世界の「空間」[客観的・外在的な]を見るわけじゃない。
ぼくら自身の個別の視野を生きているのだ。

という文章がある。

認識の最初の線の引き初めをどこに置くのか
それによってひとつの事象や現象から
受け止められる世界は変わってくる
そして、どれだけ「無意識」の確信の中で
「見て」はいても見落として、あるいは遮断しているものがあるのか
知るということの原点に立ち戻ってみることは
私の眺めに、どんな変化を齎すのだろうか。

| | Comments (0)

February 21, 2010

身体を感じるベクトル

【スクールリスト】

土曜日、スクールリストを更新
現在の掲載数は
大人向け 744件
子ども向け 511件

【身体を感じるベクトル】

先日の日記の中で
「身体を感覚するベクトルのヴァリエーション」という表現を
感じたままに何となく綴った。
自分で綴っておきながら、
その表現に体験が思考の中で整理されていくような感じがしている。

理想的な動きや形を目にしたり
直された状態を鏡などで確認して
それを後に再現しようとする時
まず、全体像をイメージ、
つまり、一旦外に像を結んでから
点在している体性感覚を、どのように感じたら
その全体像に沿うようになるのかと突合せ、
イメージを体性感覚に置き換えながら
探っていくようなプロセスがあると思う。

その外に像を結ぶことによって
すんなりそのイメージにおさまっていける
つまり、そこにかみ合う体性感覚を見出していける時も
もちろんあるけれど
時には、それが自分の中で混乱や戸惑いを生じさせて
なかなか「あ、この感じ」になっていかないこともある。

多分、体性感覚というのは
それを繋いで人の形を成すようなものではなくて
もっと断片的なもので、生じたり消えたりするもので
しかも、どこに「感覚する視点」あるいは「起点」とでもいうのか
それらを置くかによって
全く違った方向性を持ったものになってしまうものなのだと思う。

例えば、先生が外から見た姿形をもとに
「胃を引っ込めて」と表現したとする。
すると、当然自分の意識のフォーカスは胃に向かう。
イメージした自分の像から
「引っ込める」ことを意識すると引っ込みはしても、そこに緊張が生じ
なかなか、しっくりと身体全体が納得するような「あ、この感じ」としては
自分の中に受け入れられていかない。
先生が、私は言葉に敏感に反応するとよく仰っているから
逆に言えば、投げかけられた言葉に囚われやすいのかもしれないが。
その後に、小川先生のセッションの中で
手と背中に書かれた文字をどう認識するかというエクササイズで
ひとつの気付きを得たり
あるいは、CoolBalletのレッスンの中で
身体の形を想起させるようなものではなく
もっと心象的なものと、その状態を紡ぎ合わせていくようなプロセスを経て
結局、その「胃を引っ込めて」という表現で求められたものを
自分の中ですんなり、しかもリアルタイムに実現しうる感覚を見出したとき
それは胃を起点に内側へ向かう方向性を持った感覚ではなく
胃の裏の下の方あたりを起点に、外側(背中側)へと向かう感覚であったような。
それをきっかけに、「あ、この感じ」がある程度自分の中で確かになってくると
今度は、その起点が尾骨側からであったり
あるいはお臍側から、足裏から、頭頂から、
もっと広がって自分の周りの空間からと
体中、あるいは空間の様々な部分を起点そし、
様々な方向性を持った感覚として
その状態を創出し、構成する立体的なものとなり
その感覚としての身体空間のようなものに
体性感覚や視覚、あるいは聴覚などもふくめた
様々な感覚が自分に適した組み合わせとして
あるいはホッとする感じであるとか、
落ち着く感じであるとかいった心的イメージとしても
あるまとまりを得た時に
初めて、ある程度の速さや複雑さをもった動きの中で
それを維持し続けていられるようになるものなのかもしれない。
と、そんなことをぼんやりと思うこの頃。

もちろん、そういうことを意識せず、意図せず
模索の中でやってきたのだと思うが
そういうプロセスを経たのではないかと
降り返って考えてみることで
散らばった体験の引き出しを整理整頓しているのだろう。

そして、それとまた別に
動こうとして、意識が働き始めるちょっと前に
既に起こり始めている何か
それを手放していく過程で体験してきたこと
その断片的で漠然としたプロセスにも
ちょっと違う角度からそれを眺め、
考えてみたいと思っている。

たまたま、お誘い頂いた勉強会のテーマが
どこか、それと響きあう側面がるようにも感じられた。
知識の伝授としてではなく
違うフィールド、立場の方々と
学び、考える機会を持つことで
私は模索の中で体験してきた、あるいは体験していることの中から
漠然と感じてきたものに
もう少し、輪郭線を与えたり、整理したり
違う気付きや可能性を
見出していくこともあるのではないかと思う。

思いながら、そういう自分が不思議というか^^;
自分でもよくわからないところなのだが…
それを「教える」とか「ケア」する立場でもなし
自分が上達するということに目標を置き、
何らかの感覚を獲得して、求める状態の中に
それらをひとまとまりにしていくのであれば
極端に言えば、「あ、この感じ」というのは
自然とそれは普遍的なものになって
手放され、消えていくものであっていいのだと思う面もあるし
あえてプロセスを振り返る事も
輪郭線も整理も必要はないのかもしれないが
けれど、それでも
何かそこに突き動かされ、惹かれるということが
もしかしたら、20年近くバレエに向き合ってきた自分を
動かしているものであるようにも思える。

| | Comments (0)

February 17, 2010

Plasmare プラズマーレ

また、「現代思想 2006年11月号 特集=リハビリテーション」からの話題だが、
「人間再生のために」という河本英夫さんと宮本省三さんの
認知運動療法をめぐっての対談記事がある。

その中で、宮本氏がイタリアで研修をしている時に出会った
美しい言葉として「プラズマーレ」のことに触れていらっしゃる。
イタリア語はよくわからないが、おそらく「Plasmare」と綴るのだろう。

そこに書かれた言葉の意味を読んでいて
バレエを通じて学び、体験していること、授かっていることが
そのひとつの言葉の中に集約されているような気がして
とても心に残った。

それは、「プラズマーレ」という言葉なのですが、これは動詞で「形作る」、「造形する」、「イメージに具体的な肉付けをする」、「生命を与える」、「訓育する」、「精神を形成する」、「人心の教化をはかる」とか非常に複雑な意味があって、日本語には対応しない言葉です。例えば、ミケランジェロの彫刻から強い生命力を感じたときなどに、「ミケランジェロは芸術家としてプラズマーレする能力が天才的に高い」という風に使います。石を彫っていく中で、生命力を石の身体が持つと言えばよいでしょうか。勅使川原さんのダンスもまた、身体をプラズマーレして、動きに生命力を宿らせているのだろうと思ったのです。逆に、患者さんの中には、「自分の手足はもう死んでしまった」という表現をされる方もいます。患者さんに認知運動療法を行う場合も、麻痺した身体に生命力を与えていく、麻痺した身体をプラズマーレしていく、ここに身体内観というものが位置づけられるのではないかと思っています。
 しかしながら、、ここが最大の難関です。つまり、ミケランジェロの彫刻「ピエタ」の生命力は、ミケランジェロが生命を宿したのか、私たちが生命力があると感じているのか。科学的にはただの石に過ぎないわけです。その時に、物体としての身体をプラズマーレする何かが、人間の生きる身体のもっとも根源にあり、それを取り戻すことが認知運動療法、あるいは人間再生の究極のポイントかと思います。それは、リハビリテーションだけでなく、いろいろな社会文化領域に関わってくるような気がします。

「人間再生のために」河本英夫×宮本省三
現代思想 2006年11月号 特集=リハビリテーション

| | Comments (0)

February 15, 2010

Ballet:Lesson Notes #125

冬雨の月曜日だったが
前夜、次女が「踏みっこしよ~」というので
ざっと、脚やら背中やらを解しあったお陰で
血の巡りも良かったのか
割とすぐにウォーミング・アップされた。

今日も冬の練習を少々
音に合わせて動いてみると
「ん?うちで聴いていたのより結構ゆっくりめ?^^;」という気が。
音源は同じなのだが
練習で使っているのは、以前グラズノフの四季をやった時に
テンポ調整してCDに焼いたもの。
しかも、そのテンポ調整は確か私がしたのだった…(;^_^A
もう、そのデータは私のPCには残っていないが
このテンポだと、特に前半は
音の使い方も微妙に変わってくるかな??と思った。

レッスンが終わってから雑談をしている時に
雪の話になって
雪が降り始めると、静かになるのよね~
なんて、話から
「あの、し~んとした感じ
もちろん寒いのだけど、静寂で
どこか温かみかあるイメージを
言い表す言葉って無いのかしら?」
と、先生。
「そうですね~、一言で言い表すような言葉って…う~ん;;;
ちょっと、そういう言葉を集めたような本があったと思うから調べてみますね。」
と、何の気なしに言ったのだが
それに続いて…
「ええ、何か素敵な言葉みつけてね~
それが自分の名前(踊りの中のパートの名前?)になるから(笑)」と。
「(^▽^;)あ、そういうことでしたか(汗)」
今、振りを頂いている部分では無くて
ヴァリエーションの音の方のイメージタイトルってことね^^;
と、納得するも
短く言い表すって…難しい;;;

【素晴らしき水車】

ある勉強会のお誘いを頂いて
久しぶりに、現代思想のリハビリテーションの特集号を読み返している。
それに直接関係するわけでは無いのだが
その本の中に
「素晴らしき水車
―ルイジ・ピランデルロのテキストに対するリハビリテーション的変奏」
というテキストがあり
何故か、この本を開くとこの章に惹かれてしまう。
以前、ちょっとここでも書いた覚えがあるが
時を経て読み直してみると
また、違う部分に何か響くものを感じるものだ。

この序文にはこのように書かれている。

「身体」について、また感覚と精神を介した「身体と世界との関係」について考察する。 第三人称で語られる身体から始まり、生きた身体・世界に意味を付与する能力を持った身体へと進んでいくピランデルロの短編は、フィオレンツォとアルドの言葉にもあるように、リハビリテーションにとっても示唆に溢れた作品である。

前回はフィオレンツォの言葉の部分が印象に残ったのだが
今回は、合唱の部分の歌詞が
何故か、心に残った。

意味を与えるというのは
「張り付く」ことではない
意味を与えるというのは
世界の
物体を
動かすことではない
変化させることではない
… … …
意味を与えるというのは…
自分を変化させること
世界が
我々にもたらした変化を
知覚するために
我々の身体を構えること
未来を構築する……
過去を再発見しながら
今日(現在)
あなたは構築している
あなたの明日の過去を
……しかし現在が
単にスペクタクルに過ぎないのなら……
いったいあなたはどんな過去を
構築しているのだろうか???

素晴らしき水車 
ルイジ・ピランデルロのテキストに対するリハビリテーション的変奏
 / カルロ・ペルフェッティ (訳=小池美納)

現代思想 2006年11月号 特集=リハビリテーション

| | Comments (0)

< 最後 « これより前10ä»¶ | 全件