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January 22, 2011

Epoch

睡眠不足という訳でもないのに
レッスンに向かう時も
帰りの電車の中でも
強い眠気が訪れた。
 
クラスレッスンまで時間があったので、
遅めのランチをとったり、そこで葉書を書いたりしつつ
隣の席で商談を進める男性2人の会話を
何となく耳にしていたり
乗換駅で下車して
特に目的もなくショッピングモールを歩いている時も
物を見ていたというより
そこに居る人や人の流れを観ていた。
特別に、見ようとか聴こうという意識があった訳ではないが
何となく、ボーっとしつつも、五感の中に
人々の営みが、背景が、世界が飛び込んでくるような
そんな感覚だった。
 
Epochという言葉が
何故か浮かんでくる。
 
クラスレッスンの時も
身体はいい感触だった。
良い方向に動き始めている。
何がどうと、まだそれに言葉を与えることはできないけれど
そこに解釈をつける以前の次元で
何かが動いている、作用している
そんな印象、気配として。
それは、先生のお直しの入り方や
それを受け入れる身体の反応みたいなものからも感じられた。
 
レッスンが終わってから
先生が「今日は、解放されているな~という身体だった。」
と仰っていらした。
実際、ある意味ではこの週末は「解放」されている面もあるし
長期的な意味でも解放され始めているので
身体は正直にそれを表すのだなと思った。
 
【読書】
 
帰宅して、再びル・クレジオを読む。
この本は、佐藤篤司氏デザインの装丁がまた印象的で気に入っている。
見返しの赤、標題紙の緑、扉のこげ茶やチャコール
しっかりとした、ざらつきのある紙の手触り。
何か、こう、大地のエネルギーを感じさせる力強さ。

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私は、特に187頁からの
「ミチョアカン州サン・ファン・パランガリクティロでの舞踊」という章の描写が好きだ。
 
司教から、インディオたちがキリストの祭壇の前で
彼らの異教徒的儀礼の踊りを踊ることを禁ずる命を受けたサン・ファンの司祭が
その禁令の告知後のある夜、耳慣れた音を聴く。
それはインディオたちが踊る足の音。
インディオたちが禁令を犯したのだと怒った司祭が教会に行って確認するが
そこには誰も居ず、静まり返っている。
そんなことが一晩中何十回も続き、とうとう司祭は理解する。
そこからの一節を、少し引用してみる。
 


サン・ファン・パランガリクティロのキリスト、火山パリクティンが噴火したとき溶岩流をくい止めた全能のキリストは、司教の決定が気に入らなかったのだ。キリストは彼の教会で人々が踊り続けることを望んだ。それがキリストの好む踊りだった。こうして、教会はその扉をふたたび踊り手たちに開き、その日以来、かれらは二度と踊りをやめていない。

 
 キリストが愛したのはその音、彼に語りかけ、彼の耳にもっとも甘美な音楽だった音であり、十字架にかけられていることの苦しみをやわらげてくれる唯一のものはその音だった。教会の柱と柱の間にあって、その場で飛び跳ね、三歩進んでは二歩さがる素足のたてる音。誰も話さず、音楽はなく、祈りもない。ただ地面を打つこれら全ての足の、鈍い音だけ。まるで何かを読もうとしているかのように少し身体を前傾させ、肘を体にひきつけた男たち、女たち、子供たちが、若者も老人もなく、踊りながら祭壇へと進み、ついでぴょんぴょんと飛び跳ねながら、両脇へと別れていく。


ジャン・マリ・ギュスターヴ・ル クレジオ 「歌の祭り」 

踊ることが、すなわち祈りである。
その力強い響きと、恍惚とした昂りと静寂とが
同時に押し寄せてくるような気分になり
何か、大地に根ざす深紅のエネルギーを感じさせてくれる。
 
【明けの明星】

まだ暗いうちに目が覚める。
ふと窓の外を見ると
金星が妙に明るい。
明るいだけではなく2つ3つ、並んで見える。
乱視気味なので、最初は自分の目のせいかと
眼鏡をかけて観なおしたが
どう眺めなおしても、やはり3つ見える。
金星と同じような輝きを持つ星が
この時期、こんな近くに並んでいただろうか?
どこか不思議で写真を撮って
少し空が明るくなってから再び同じ方角を撮ったが
そこにはいつものように金星がひとつ輝いているだけだった。
これは何だったのだろう。ISSか何かかな???

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January 19, 2011

宙に浮かんだような
掴みどころの無い時間を纏った一日
数日前から再読していた
ル・クレジオの「アフリカのひと ―父の肖像」も読み終えてしまい
半日かけて描いた絵は気に入らなかった。
潔く、捨てる。
 
アフリカのひと ―父の肖像


自分自身にちょっとふてくされて
ジョンと共に寝転がって、流れていく雲を眺めた。
ブラインドが鳥かごみたいに思えたが
次第に、澄んだ青空に全てが掬い上げられていくのを感じながら
僅かな時間微睡んで、夢を見た。
 
目覚めてから
もう一冊の「ル・クレジオ」を思い出し
本棚の奥から引っ張り出してきた。
今度は、中心にその一節が響き
夢で見た自分の背中に
それは、翼を描いてくれるような気がした。

彼女らの美しさは、周囲の世界の変化に無関心だ。他の土地では男も女も、自分たちの惨めな生活をやわらげてくれるもの、渇きや飢えや欲望をついにいやしてくれるものを、無為に待っている。けれどもここ、雲をまとう火山の高みに島のようにとまっているこの遠い村で、タレクアトの女たちは待たない。彼女らは空の青や光の黄金色を身につけて、ただ彼女ら自身でいるだけだ。

ジャン・マリ・ギュスターヴ・ル クレジオ 「歌の祭り」 
歌の祭り

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January 11, 2011

Dore

Go with the Flow
そのメッセージが心の中で
木霊するような感覚の中で始まった1日。
とにかく、一歩を進めることだ。
その一歩がほんの少し自分自身を軽くするのなら
2歩目はそれよりまた少し
踏み出す足が軽くなるだろう。
そう思った。
 
携帯で、『雑念する「からだ」』さんの記事に触れた。
ストンと響いてくる。
「ワケの分からない話」とご自身で綴られていらっしゃるが
そのワケの分らなさ…が
自分の中のワケの分らなさに
何かこう、しっくりはまってくる。
…という感想もワケがわからないかもしれないけれど(笑)
  
【ドレの新約聖書】

仕事を終えて
時間調整に立ち寄った書店の片隅で
1冊の本の表紙に目が留まった。
それは、ギュスターヴ・ドレの描いた
「サタンによって試されるイエス」の場面。
「ドレの新約聖書」というペーパーバック

ドレの新約聖書

 
ドレの作品は、以前洋書やWebで眺めたりしたことはあったけれど
ゆっくり鑑賞したことは無かったし
手ごろなサイズ&価格でありながら
絵だけではなく、詩人谷口江里也氏の親しみやすい訳文と共に
味わえるのが何とも魅力的。
同じシリーズの「神曲」とどちらにしようか迷ったけれど
やはり、最初に惹き付けられた新約聖書の方を購入して帰ってきた。
明日は久しぶりに家でのんびり過ごせる平日
ゆっくりこの本を楽しみたいと思う。

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July 02, 2010

涼を求めて

【涼を求めて】

風鈴のブログパーツを見つけたので
サイドバーに設置してみた。
何もしなくても、程ほどの間合いに「ちり~ん」と鳴ったりするが
画像にカーソルを合わせても鳴る。
透明感のある音色と控えめな鳴り方がお気に入り。
パーツの背景をカスタマイズできたらもっと良いのにな。

【父】

今日は父が不在者投票に行き
ジョンも乗せて車で送り迎えをした。
父は車内でまた「しょ~もない事」をあれこれ話していたが(笑)
まあ、深刻なことほど茶化してしまうようなところが父の父らしいところであり
どこか自分とも似ているところかもしれない(汗)
でも、父と娘と犬の和やかで緩やかな昼下がりのひとときだった。

【読書】

今日からやっと本腰を入れて?キャンベルを読み始めた。
まずは、選集1の「時を超える神話」から。
図版も豊富でとても面白く、本を読んでいるというより
話し上手な身近な先生の話に惹き込まれているような近しさを感じながら
夕食の支度をするのも、どこか気も漫ろになってしまう。
翻訳されたものでこれなのだから
きっととてもカリスマ性のある人なんだろうなと思う。

サンテックスを読んでいるときは、どこか「空飛ぶ修道者」のような透徹した眼差しと、
その生きた時代の重苦しさのようなものにも同時に触れているようで、
何となく背筋を伸ばしてテキストに向き合うような感じなのだが
キャンベルの場合は、もう少し寛いだ感覚で耳を傾けているような気分。
それでいて、示唆に富んだ言葉がポンと飛び込んできたり。
ちょっと人恋しさも感じる(笑)こんな時には
その近しさにホッとするような居心地の良さを覚える。
やはり、先日本に呼ばれた気がしたのは
今自分に必要なものだったからなのかな・・・なんて。

心に残った言葉は、また追々読書ブログにメモしていこうと思う。

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June 27, 2010

【捻挫】

ごく軽い捻挫のようでも
安静を保って、身体の感覚を研ぎ澄ませていると
やはり結構影響は広がっているものだなと思う。
はじめに感じた踝周辺のヒリヒリ感は消失したが
若干の攣れ感、場所によっては
ちょっとチクチクするような違和感は
微かにだが小指から大転子まで広がっている。
意外と最後まで残りそうなのは
踝と小指を結ぶラインの違和感かな…
などと、完治まで休む腹をくくってしまったので^^;
暢気に観察している。

きっと動いてしまったら、紛れてしまう程度の違和感だけれど
その程度のものでも、おそらくレッスンをしていたとしたら
無意識のうちに庇うような身体の使い方をして
全体のバランスを崩すであろうことが
体験からも^^;予想されて
やはり初期の安静が治癒への一番の近道なのだと感じた。

  とはいえ、様子を伺う電話やメールを下さったり
  美しい睡蓮の写真のお見舞いメールを送ってくれたり
  またしても間抜けな怪我で
  ご心配お掛けしてしまった先生、お友達にごめんなさい;;;
  そしてありがとうございますm(_ _)m

このちょっとした怪我も、ここで少し立ち止まって
心身を休める時間や
両親との時間を持つために齎されたものなのかもしれない。
余り、嬉しい出来事ではないのはもちろんだけれど^^;
でも、そのお陰で抜け落ちていく不要なものや
反対に、素直に響いてくるものがあって
どこか、そのシンプルさに寛いでいるような側面もある。

こんな時は、自分の中で疑問を持つことすらないような当たり前のことに
違う眺めを齎す余白が生じるものなのだろう。

【絆―星の王子さまから】

先日の「星の王子さまの秘密」を読んでいて
キツネとの出合いのシーンについての解説がとても印象に残った。

そこで山崎氏が翻訳・引用した表現は
馴染みのある邦訳版とはまたちょっと違った趣だ。

おなじ時間にきてくれたほうがよかったんだよ。たとえば、きみが午後の四時にきてくれることになれば、三時にははやくもぼくは幸福になりはじめるはずだ。時間がたてばたつほど、ぼくは幸福を感じることになるだろう。四時になると、もうそわそわして、心配になってくる。ぼくは幸福の値打ちを発見するだろう。でも、もしきみが時間かまわずやってくるようだと、ぼくは何時に心に着物をきせたらいいかわからない。…祭式が必要なのさ。

”何時に心に着物をきせたらいいかわからない”という表現は
邦訳版ではずいぶんかみくだいた表現になっているけれど
この表現は素敵だなと思った。
そして、”祭式”という言葉は、やはり子どもには難解すぎるからか
邦訳版では”きまり”と表されているが
これも、城砦にもよく出てきた言葉で
この後、キツネは王子さまに
「ある日を他の日と、ある時間を他の時間と異なったものにする働き」だと説明する。

そして、山崎氏は

このような緊張と忍耐がなければ、デートの歓びも存在しない。友情とは既製品として売られているものではなく、このように儀式的時間をかけて創造されるものなのである。キツネはこの教訓にたいしても、彼一流のモラリテを付け加えることを忘れない。-「飼いならしたものしか、真の意味で認識できない。人間はもはや、なにひとつ認識する時間をもたない」
 さらにもうひとつ、キツネは《飼いならされる》結果としての、自分と外界との関係の変化にも言及する。このテーマは、これからの物語のいわば縦糸をなすものであり『王子さま』の中でもいちばん有名なテキストを構成する。

と、解説する。
邦訳版を読んでいるとき、「飼いならす」ということばが
「仲良くなる」ことだとキツネの言葉で定義されていても
それがキツネとの関係性の中だからとはいえ
どうもしっくり馴染まなかったのだけれど
この解説の少し前のページでは
キツネは”絆を創造する”と定義したとあって
先の”祭式”という言葉と共に
自分の中でスッキリと繋がっていくように感じられた。

そして、今、人と人との絆について思うところと
とても響きあうものを感じた。

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June 26, 2010

捻挫

一昨日の朝起き抜けに、ひょんなことから転んで
どうも右足首の軽い捻挫をしたらしく^^;
当初は全くなんともなさそうに思えたが
その日の夕方辺りから、少し患部周辺に違和感を感じ始めた。
歩くのが痛いという程ではないのだけれど
何もしないでも、ヒリヒリするような感じはあるのと
踝から腓骨に沿って、少し攣れる感じがあり
また、ここで無理して動かしてしまうと
後々、色々アンバランスが生じたりしてしまうだろうと思ったので
完治するまで暫くレッスンをお休みさせて頂くことにした。

と、いうわけでオフになった金曜日だったが
いざ、お休みになってみると
足の故障だけでなく
床に沈みこんでいきそうな全身のだるさがあって
足を休ませるためにちょっと横になると
1分も立たないうちに眠気が襲ってきて
体温は測らなかったが、少し熱っぽさもあるようでもあった。
結局、まる1日殆ど寝ていて
それでも、夜も10時間は爆睡してしまい^^;
やっと今朝になって、すっきりとだるさが解消した。

やはり、身体も神経も
一度、そうして緩々に緩める時間を欲していたのかもしれない。
足首の方は、ヒリヒリ感は消えたが
やはり、まだ少し違和感は残っているので
暫し安静を保ちながら過ごそうと思う。

父は一昨日、執刀を担当するであろう医師の診察を受け
現状についてのより詳しい説明と
今後の治療計画などについて話を聴いてきて
開胸手術になるので、
まだすぐにオペに突入するのではなく
全身の血流の状態など、より詳細な検査を行ったうえで
再度、説明の時間を取ってからということになるそうで
まだ、当分は流動的な状況が続くことになりそうだ。

今日は、また少し母の身体と心のフォローの時間を
持とうと思っている。

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昨日の夕方、ポストを覗くと
先日の友人からの茶封筒。
最近、サンテックスにはまっている私に
もう1冊本を譲ってくれたのだった。
山崎 庸一郎 著 「星の王子さまの秘密
フランス語で書かれた原文を読めない人間にとって^^;
子どもにも読めるように翻訳されたテキストからは読み取れないものを垣間見たり
また、同時期に平行して書かれた「城砦」と
通じ合うところを感じ取ったり
なかなかに興味深い1冊。
ゆっくり楽しみながら読ませて頂こうと思う。

色々、案じてくれているのだと思う。
直接、それに触れることもなく
でも、いつも絶妙なタイミングで
繊細な眼差しと労わりを
さりげなく示してくれる行為に感謝しつつ
そのあり方に、学ばされることが多い。

案じ、労ってくれる人の優しさ
時に、問題点を指摘し厳しい言葉を向けてくれる人の優しさ
様々な人に支えられているのだとつくづく思う。

批判的な言葉には
それが愛情から発せられているものと重々承知した上でも
「だって」「でも…」というところから始まる思考が
やはり、一度は沸き起こってくる
けれど、その「我」を一度そのまま通過させて
心をオープンにして受け止めてみると
やはり、見えなかった自分が見えても来る。

色々な優しさにありがとう…と心から思う週末だ。

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June 09, 2010

梅雨間近

昨日出勤途中に通りかかったお宅の玄関先でみかけた
額紫陽花の美しい淡いブルーの花びらが
忙しない時の流れの中にも爽やかさと心の潤いを与えてくれた。
間もなく梅雨入りだろうか。

【薔薇】

昨夜は仕事で疲れていたのか
9時過ぎにはもう寝てしまっていたので^^;
丸一日薔薇たちの様子を見ることができなかったが
今朝起きたら、先日鉢替えしたブリーズと
サー・フレデリック・アシュトンの新しい花が開き
ジャンヌダルクもずいぶんと表情を変えていた。
特にサー・フレデリック・アシュトンのエレガントな香りは
この湿り気の多い空気を甘美なミストにしてくれるようで
何とも幸せな気分になる。

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私にとって、薔薇の楽しみというのは
その姿以上に香りによるところが大きいのかもしれない。
視覚で美しさを楽しんでいるときは
その美はどこか自分の外にあるものだけれど
嗅覚でそれを楽しんでいるとき
それは、もっと自分と一体化したところでの至福であるように感じられるから。

【読書】

今週の通勤のお供には
軽くて(実際の重さが)薄くて、
でも内容は深く、濃いもの
一語一句をじっくり味わえる本がいいなと
三木清の「人生論ノート (新潮文庫)」を持ち歩いている。

美しい明晰性で、深く感じさせてくれる1冊。


機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現われる。歌わぬ詩人というものは真の詩人でない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現われて他の人を幸福にするものが真の幸福である。

人生論ノート (新潮文庫)
三木清 人生論ノート (新潮文庫)

そして、家では…相変わらずサンテックス(笑)
今日は「手帖 (サン=テグジュペリ著作集 5)」を読みながら過ごしている。

人はおのれを越えるや否や、到達するのは普遍であり――人間の偉大さである。合理的なものの上に築かれた高貴な態度なるものを、ぼくは知らない。

手帖 (サン=テグジュペリ著作集 5) 99ページ

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May 23, 2010

トリエステ

この週末、イタリアに出張中の友人から葉書が届いた。
ミラノで仕事を済ませた後、トリエステに足を伸ばしたのだそうだ。
葉書はサン・ジュスト城から眺めた町並みと美しい海の風景の写真だった。
消印を見ると、1週間ほど前に投函してくれたようだが
まるで、今の私の心情を察したかのように
気の利いたメッセージが添えてあった。

写真の風景を眺めながら
こんな眺めの中に佇んでみたいなと
異国の地に想いを馳せた。

トリエステは須賀敦子さんの著書「トリエステの坂道」や
同じく訳の「ウンベルト・サバ詩集」を読んだこともあって
いつか行ってみたいところだと話したことがあるのを
覚えていてくれたのだろう。
小説やサバの詩に出てきた場所の印象なども書かれていて
それを綴る丹精な文字にも
デザインを仕事とする友人の美的感覚が表れているようで
メールでも電話でもない、手書きゆえの温もりが感じられた。

トリエステにちなんで
ウンベルト・サバ詩集『軽くて漂うものたち』より一篇

ぼくの娘に聞かせる小さい物語

娘よ、泣くのはおよし、悲しみが膨れるだけだから、
戻るものなら、ひとりでに、大事なものは戻ってくる。

ぼくはツグミを飼っていた、金の輪が目の
まわりにある、くちもくちばしも金色の。
そいつのために松の実や小さいミミズなんかを
ぼくは、たからものみたいにかくしておいた。
だれにもなつかないのに、ぼくが
学校から帰ると、大よろこびして、ほんとうだ、
ぼくの言うことはぜんぶ、ともだちみたいに
あいつはわかった。二年のあいだ、すてきなことも
にがいことも、あいつだけに、ぼくはぜんぶ話した。
ある日、逃がしてしまった、あいつはヴェランダから
中庭に逃げてしまった。ぼくが大声で泣きに
泣いたものだから、みんなが窓に駆け寄った。ぼくは
あいつを目で追い、なつかしい名をくりかえし呼んだが
だめだった。屋根から屋根へさまよって、
だんだん小さくなって、遠くへいった。
まるでぼくの大きな痛みを嘲うみたいに、
ぼくの絶望を無視するみたいに。
どんなに悲しかったか、娘よ、きみにはとても
わからない。何もかも失われたのだ。やがて
泣きやんだのは、もとどおりになれると思ってじゃない。

それなのにあいつはひとりでに、
ねぐらに戻った、たった一個の松の実に釣られて。


須賀敦子全集〈第5巻〉イタリアの詩人たち、ウンベルト・サバ詩集ほか (河出文庫)
須賀敦子全集〈第5巻〉イタリアの詩人たち、ウンベルト・サバ詩集ほか (河出文庫)

最初にこの詩を読んだとき
最後の「たった一個の松の実に釣られて」というフレーズは
何となくひっかかった。
でも、それは少年の日のサバの「愛」なんだろうなと思うようになって
この詩が好きになった。

雨が強くなってきた。
夕方、雨粒のビーズを纏いながら
風に震えていた開花前のブリーズを
今夜はリビングに入れて過ごす。
ブリーズが咲いたら、
爽やかな風のような葉書を送ってくれた友人に贈ろうと思う。

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May 17, 2010

薔薇と螺旋と三木成夫

透けるような白の羽衣
3人の天女の舞

花びらの描く螺旋
株全体の描く螺旋
そこに宇宙がある

その花姿が
三木成夫の「海・呼吸・古代形象―生命記憶と回想」の最終章に
再び私を誘った。

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こうして見ると、植物のからだとは、いってみれば、根の延長として大地を従え、葉の延長として天空を戴く、文字通り宇宙を包含するような規模を持つものであることが推察されるが、こゝでさらに、その体軸が、地球の球心を貫く力線とみごとに対応していること、あるいはさきに述べた、その生の波が、地球の描き出す螺旋軌道に完全に重なっていることなどを考えてみると、いったい植物の生とは、時・空の両面で、この宇宙の網の目に、固く織り込まれているものではないか、ということになる。
 クラーゲスは、このような植物の生きた姿を見て、そのからだには”「遠」が居合わせている”と表現した。それは、かれらの体細胞が、かつて地球から、いわば生きた衛星として分身した、遠い過去の物語りを、そのDNAが、みづからの渦巻模様の中にひとつの「生命記憶」として、完全に刻印しつくしていることを意味するものであろう。もともと、感覚と運動に携わる、なにの装置も持ち合わせない、熟眠状態のかれらが、いったい地球の中心に向かって根をおろし、天空の頂点に向かって茎を伸ばしていくのは、なにゆえか。また、春の到来とともに開花前線を北上させ、秋の到来とともに紅葉前線を南下させるのはなにゆえか。
こゝでは、それは、自分と宇宙を結ぶ太い絆のはたらきによる、というよりも、そうした「遠」の記憶の声に促されての自然の結果、と説明するよりない。これを「遠」の観得 Schauen と呼ぶ。

この章の中で、三木成夫はロダンの「考える人」に
広隆寺の「弥勒菩薩像」を対置し
前者については

これは要するに「近」に繋がっていることの証明ではなかろうか。そして、こゝで大切なことは人間のみに宿る「精神」の機能が、「自我」の意識作用として、この動物極、いわゆる「肉体」を大きく支配する、というこのことであろう。人間の「近感覚」は、こうして、どんな動物にも見ることのできない、独自の色彩を帯びることになる。

と語り、後者を
つぎに左は、一見して明らかなように「遠」との交流を示す、したがって「近」の束縛からは、解き放たれた姿であろう。こゝには“あたま”を押さえるものがなく、胴体も手足も、筋肉はのびやかに、その半眼に閉ざされた双の眼とともに、反動を準備する緊張はみられない。一方、微笑を浮かべた口許には、小宇宙を象るような指の輪が添えられ、真直ぐに伸びきった体軸と相まって、こゝには、あの天地を結ぶ循環路に挿入された樹々の霊が、微かに浮かび上がってくるのであるが、こうして見ると、その胸もとの、まぎれもない、ほのかなふくらみとともに、この半跏の像の意味するものが、にわかに明らかとなるではないか。

 それは右とは対照的に、感覚門を閉ざして栄養面を開いた、いいかえれば、微睡む動物系に代わって、宇宙リズムと秘めやかに共振する植物系の、その内に深く蔵されたこゝろを、表そうとしたものではないか。

「遠」との交響の図であろう。

と、語る。

「遠」と響きあいながら舞うエレーヌが教えてくれること
それが、この1節を
記憶の片隅から手繰り寄せてくれたのかもしれない。

この続きは、また今度ご紹介させて戴きたいと思う。

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May 14, 2010

薔薇と本

【薔薇】

さらりとした肌触りの朝のキャンバスに
薔薇たちの香りと色彩が躍っている

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ハイディ・クルム・ローズ

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ブルーリボン

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イングリッシュ・アイズ

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アンナ・パヴロバ

【通勤バッグの中の1冊】

「意味は状況によって決定されるのではない。われわれが、状況に与える意味によって自らを決定するのである。」

「困難があるから課題を回避するのではなく、むしろ失敗を恐れるがゆえに課題を回避するのであり、課題を回避する理由として、人生とその課題に大きな困難と危険を探すのである。」

アドラー 人生を生き抜く心理学 (NHKブックス)より

OPENPATHの斉藤先生と小川先生がご紹介下さった
アドラー心理学の本(岸見一郎 著)
これは新書サイズのコンパクトなものだが
心に響く言の葉が多数散りばめられている。
「心理学」という言葉がつくと
どこかアカデミズムなイメージを覚えさせる響きに、
それだけで抵抗感を覚える方もあるかもしれないが
肩肘張って頭で読む本ではなく
心で触れることのできる本。

アドラー 人生を生き抜く心理学 (NHKブックス)


読みながら、内田樹氏のブログの
『1Q84』に関連した記事の一遍を
いくつか思い出したりもした。

私たちは記憶を書き換えることができる。そして、自分で書き換えた記憶を思い出して、「ああ、私のこのような経験が私を今あるような人間にしたのだ」と納得する。
勘違いしている人が多いが、人間の精神の健康は「過去の出来事をはっきり記憶している」能力によってではなく、「そのつどの都合で絶えず過去を書き換えることができる」能力によって担保されている。
1Q84読書中
「父」の教化によって、あるいは教化の放棄によって、私は今あるような人間になった。
そういう話型で私たちのほとんどは自分の今を説明する。
それは弱い人間にとってある種の救いである。
…中略…。
「私が今あるような人間になったことについて、私は誰にもその責任を求めない。」 そう断言できる人間が出てくるまで、「父の支配」は終わらない。
「父」からの離脱の方位

自分はどんな話型で自分を語って(捉えて)いるだろうか。
そんなことに、ちょっと目を向けて見るだけでも
人生の眺めは変わってくる。

内田氏の記事は
邪悪なものの鎮め方 (木星叢書)」にもまとめられている。

邪悪なものの鎮め方 (木星叢書)

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