Epoch
睡眠不足という訳でもないのに
レッスンに向かう時も
帰りの電車の中でも
強い眠気が訪れた。
クラスレッスンまで時間があったので、
遅めのランチをとったり、そこで葉書を書いたりしつつ
隣の席で商談を進める男性2人の会話を
何となく耳にしていたり
乗換駅で下車して
特に目的もなくショッピングモールを歩いている時も
物を見ていたというより
そこに居る人や人の流れを観ていた。
特別に、見ようとか聴こうという意識があった訳ではないが
何となく、ボーっとしつつも、五感の中に
人々の営みが、背景が、世界が飛び込んでくるような
そんな感覚だった。
Epochという言葉が
何故か浮かんでくる。
クラスレッスンの時も
身体はいい感触だった。
良い方向に動き始めている。
何がどうと、まだそれに言葉を与えることはできないけれど
そこに解釈をつける以前の次元で
何かが動いている、作用している
そんな印象、気配として。
それは、先生のお直しの入り方や
それを受け入れる身体の反応みたいなものからも感じられた。
レッスンが終わってから
先生が「今日は、解放されているな~という身体だった。」
と仰っていらした。
実際、ある意味ではこの週末は「解放」されている面もあるし
長期的な意味でも解放され始めているので
身体は正直にそれを表すのだなと思った。
【読書】
帰宅して、再びル・クレジオを読む。
この本は、佐藤篤司氏デザインの装丁がまた印象的で気に入っている。
見返しの赤、標題紙の緑、扉のこげ茶やチャコール
しっかりとした、ざらつきのある紙の手触り。
何か、こう、大地のエネルギーを感じさせる力強さ。

私は、特に187頁からの
「ミチョアカン州サン・ファン・パランガリクティロでの舞踊」という章の描写が好きだ。
司教から、インディオたちがキリストの祭壇の前で
彼らの異教徒的儀礼の踊りを踊ることを禁ずる命を受けたサン・ファンの司祭が
その禁令の告知後のある夜、耳慣れた音を聴く。
それはインディオたちが踊る足の音。
インディオたちが禁令を犯したのだと怒った司祭が教会に行って確認するが
そこには誰も居ず、静まり返っている。
そんなことが一晩中何十回も続き、とうとう司祭は理解する。
そこからの一節を、少し引用してみる。
サン・ファン・パランガリクティロのキリスト、火山パリクティンが噴火したとき溶岩流をくい止めた全能のキリストは、司教の決定が気に入らなかったのだ。キリストは彼の教会で人々が踊り続けることを望んだ。それがキリストの好む踊りだった。こうして、教会はその扉をふたたび踊り手たちに開き、その日以来、かれらは二度と踊りをやめていない。
キリストが愛したのはその音、彼に語りかけ、彼の耳にもっとも甘美な音楽だった音であり、十字架にかけられていることの苦しみをやわらげてくれる唯一のものはその音だった。教会の柱と柱の間にあって、その場で飛び跳ね、三歩進んでは二歩さがる素足のたてる音。誰も話さず、音楽はなく、祈りもない。ただ地面を打つこれら全ての足の、鈍い音だけ。まるで何かを読もうとしているかのように少し身体を前傾させ、肘を体にひきつけた男たち、女たち、子供たちが、若者も老人もなく、踊りながら祭壇へと進み、ついでぴょんぴょんと飛び跳ねながら、両脇へと別れていく。
ジャン・マリ・ギュスターヴ・ル クレジオ 「歌の祭り」
踊ることが、すなわち祈りである。
その力強い響きと、恍惚とした昂りと静寂とが
同時に押し寄せてくるような気分になり
何か、大地に根ざす深紅のエネルギーを感じさせてくれる。
【明けの明星】
まだ暗いうちに目が覚める。
ふと窓の外を見ると
金星が妙に明るい。
明るいだけではなく2つ3つ、並んで見える。
乱視気味なので、最初は自分の目のせいかと
眼鏡をかけて観なおしたが
どう眺めなおしても、やはり3つ見える。
金星と同じような輝きを持つ星が
この時期、こんな近くに並んでいただろうか?
どこか不思議で写真を撮って
少し空が明るくなってから再び同じ方角を撮ったが
そこにはいつものように金星がひとつ輝いているだけだった。
これは何だったのだろう。ISSか何かかな???























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