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April 16, 2010

寄り添うこころとからだ

今朝は『雑念する「からだ」』さんのブログを拝見(拝聴)。
『碧厳録をワークする』という講義録で語られていることに、
とても居心地の良さを感じながら
緩やかな一日が始まった。
『碧厳録』や『碧厳ところどころ』についての解説も
学ぶこと、感じることが多々あったが
特に『碧厳録をワークする3』の後半部分は
ああ、そうだよね・・・と共感を覚えながら
何度も繰り返して聴いてしまった。

そして、これが文字ではなく
音声だから、また良いのだと思う。
同じ内容を、視覚的に触れていたら
もう少し心から遠いところで受け止めてしまったかもしれないところを
目を閉じて聴いていると
それこそ、いまここの自分を感じながら
語られていることと、それに響きあう心を
タイムラグ無しに味わえるというか。

お声を拝聴したのはこれが初めてだが
不思議なもので、そのお声や語り口は
文章に触れてイメージしていた通りで
初めて聴いた気がしなかった。
お会いしたことも無いのに、勝手な印象で恐縮だが
身体と心が適度に緩んでいる方の声だなと感じた。
だから、聴いていても居心地が良く
響いてくるのだろう。

この後のワークで、どのようなことが行われたのか
とても興味深いが(楽しそう!)
心引かれたところに身体が動くということを
自分の身近な体験の中で考えてもみた。

多分、CoolBalletで気まま(まさに『気のまま』かもしれない)に踊っている時
というのが一番心と動きのタイムラグが無いように感じる。
全くの無意識でもなければ
でも、何らかの評価や思考に囚われることも無く
身体が、動きが、その瞬間の心とぴったりと寄り添う時間で
そういう中で、吐露すべきものは吐露され
変わろうとせずとも変化は自然に起こっているものなのだろう。

そして、それが浸透するにつれ
その場や時を離れたところでも
鼓動し得るものになっていくのかもしれない。
今、ある程度の間を置いているけれど
むしろ、その間の中で生き続けている鼓動をクリアに感じる。

過ぎた時間の体験にしがみつくのでも
次に訪れる体験に心が飛んでいってしまうのでもなく
それが日常のどんなシーンでも
瞬間ごとの私のベースにあるような
近しさとして。


【薔薇】

Heidi Klum Roseの蕾が膨らみ始めた。
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ブルーリボンにも蕾の気配。
こんなに寒くても、いのちの中で
春はそのステップを踏み続けている。


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April 08, 2010

桜尽くし

大地に敷き詰められた無数の花びらが
軽やかなステップを誘う朝
風に運ばれて、土の上で花びらが描く紋様が移ろう
自然の織りなすアートが
桜色のチュチュを纏った
壮大な群舞のようにも思えた。

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この2週間ほどの間の桜の写真をまとめてみた。
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April 07, 2010

花影

昨日は出勤前の僅かな時間、通勤途中にある桜を眺めた。
空と桜と木々が織りなすレース模様が
朝靄の柔らかな紗を纏う美しい風景。
水面に揺れる花影・・・
こんな出合いがあることが早起きのささやかな楽しみ。

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次女のことでも、いろいろまさかの展開があったここ数日
それに限らず、
なかなかスムーズにことが運ばないケースが多くて
何だか人生に試されているような気もしていた昨今^^;

でも、昨夜急に自分の中で、
何かのスイッチが切り替わったように思う。
生きたい私を生きる。
もちろん思うようにはならない事の方が多いけれど
そういう気持ちの勢いとでもいうのか
方向性を持った何かが、静かに動き始めた感じ。
私は、それを信じたい。

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April 04, 2010

零れ桜

今日も夕方、近所の公園の零れ桜を愛でる。
儚さの分だけ美しく
儚さの分だけいとおしい。

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桜の傍らで吉田宏行の「宇宙そしてα」を読む。
好きな詩から抜粋。


言葉の中にしずくがあり、よどみがあり、薄膜がある。
言葉が雪を含まなかったら、ぼくたちはどのような冷たさのちかくまで行けるだろう。
言葉が光の帯に包まれていなかったら、どのような明るさの端までちかづけるだろう。
おそらく、春の薄日のうずの中で、
言いえないものに寄り添おうとして、
最初から、言葉は意味ではない波動として生まれたのだ。 

吉田宏行「宇宙そしてα」(思潮社)
『言葉の中に』より

明日は桜流しの雨が降るのだろうか。


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空気を抱きかかえたような軽さ

昨日、はらりと舞い落ちる桜の花びらの中で
公園のベンチに座りながらジョンと過ごしていて
冬の2曲目の方の踊りは
こんな風に「空気を抱きかかえたような軽さ」なのかもしれないなと思った。

走るというよりは、ポアントから降りないまま
小さくジュテしていくような動きと
「気配を聞く」アームス…というか上体
ステップの軽さとアームスの柔らかさ
それらが折り合うコントロール。

今日は、以前戴いた香司の「花束」を焚きながら
のんびり過ごす。
柔らかいフローラル・ブーケの香りが
日曜のひと時を優しく包んでくれる。

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昨日の公園で。風に舞う花びらを一生懸命追いかけていた(笑)
傍に居たヨチヨチ歩きの赤ちゃんが気になる様子。

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April 02, 2010

一晩中続いた風の音になかなか熟睡できず
ずっと浅い眠りの中で、その音と響きを感じながら
意識が漂っていた晩だったせいか
とうとう4時過ぎに目が覚めてしまった(涙)
というより、眠いは眠いけれど
寝ても醒めてもいないような状態から
意識的に抜け出すことをさせたのは
やはり、戸外の薔薇のことが気懸かりだったからかもしれない。

けれど、その夢現が続いていた間の感覚というのは
何とも面白いものだった。
自分が、何故か軽いボールのような球体になって
水面に浮かんでいて
風が吹くたびに水面を前後左右に転がるような。
でも、固く平らな地面の上でなく
4分の1くらいは水に浸かったところで風に吹かれているから
水の抵抗や、水自体の揺らぎにも影響されながら
水と風の中で漂うような不思議な感覚だった。

本当に今年はよく風が吹く。
さ、薔薇の無事も確認したことだし
もう一度寝なおそう;;;
まだ4時半だし^^;

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April 01, 2010

「自然」から徒然

4月、さくら色の朝焼けに始まり
通勤途中や休憩時間に見上げた空が
美しい表情を見せ、楽しませてくれた1日だった。

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朝。綿あめみたいな雲が美味しそうだった(笑)
友人の誕生日を祝福するメールを送った。

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昼休みが終わる頃、また別の友人から
春風のように爽やかなメールを頂く。
その返信に添えた桜の写真。

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そして、帰り道。
何故か、この空を見ていて、
叔母の描いた日本画のことが思い出された。
それは、空の絵では無かったのだが
叔母はよくブルーを使っていた。
この頃、よくその叔母のことも思い出す。

自然の描く瞬間の美に触れながら
何となく「自然」という言葉が気になってくる。

「しぜん」それから同じ文字で「じねん」
オンライン辞書でざっと眺めてみただけでも
色々な意味や、ニュアンスがあり
慣れ親しんだ言葉にも
意外な奥行きがあって面白い。

しぜん
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/83520/m0u/%E8%87%AA%E7%84%B6/
じねん
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/0865620-0000/m0o/
「自然」の語源は??
http://questionbox.jp.msn.com/qa3762507.html

そして、もうひとつ「魂のランドスケープ/細川俊夫 著」から
印象に残った部分にも
「自然」という言葉が含まれていた(笑)

しかし、一人の人間が、生き生きと生きていくということは、その人にしかわからないような感情や感覚を、深く味わっていくことではないだろうか。人を深く愛したり、自然や芸術を愛したり、自分の仕事に夢中になって働くこと。その人の時間が、密度の濃い神話的なものになるというのは、どれだけ深く自分に与えられた人生の時間を感じ、味わっていたかによるのだと思う。

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March 29, 2010

花冷え

花冷えの月曜日、西田幾多郎歌集 (岩波文庫)を読んだり
ゆるやかで怠惰な(笑)ストレッチをしてのんびり過ごす。

「待つ人のあるにあらねど何もかも待つ思ひする春の夕暮」
という歌を読みながら
ミルク色の雲が広がる空を眺めぼんやりとしていたところに
色鮮やかな花の写真を添えたメールを戴き心和んだせいだろうか
ちょっと踊りたい気分になり
座ったまま先週のレッスンの感覚を思い出しながらアームスを動かした。
目を閉じると同じ感覚が蘇る。
それは、その時間も目を閉じたまま踊っているからかもしれないが。

目を閉じ、身体に委ねて踊るということ―
饒舌な意識と先走る視覚がトーンダウンする時、
自己と世界の境界線が変わる。関わり方が変わる。
その曖昧さの中に何かがある…多分。

目を閉じていることで身体中が目になる。
世界(あるいは環境)が近寄ってくる、ボーダーレスになる。
が、逆に言えば感覚が外に広がっていくようでもあり、
身体中の目が外に向かっていき、空間をなぞってきて、
普段視覚的に捉えているものを
皮膚だけではないところでも触覚に近い感覚で受け取ってもいる。

目を閉じていても身体は空間を「見て」「触れて」「撫でて」
空間は私を「抱擁し」
五感という感覚の枠組みを超えた根源的な部分で、
「動く身体」であることを体験している…そんな印象。

もちろん、目を閉じているから
通常のように安定したバランスではない
けれど、そのゆらぎつつ交錯する中に
動きの出発点により近い何かと
触れる体験があるように感じている。

身体中が「目」なんて、絵的に想像したらかなり怖い図^^;?
まあ、それは比喩的にしか表現し得ない感覚で(笑)
言葉に表そうとすると
どうしても訳のわからない文章になってしまう。

が、そんなことをつらつら考えながら
その西田幾多郎歌集を読み進めているうちに
随想の中に収録されている「『直現芸術論』序」という
平沢哲雄著の全集第11巻に寄せた文章の一節に
偶然にも似たような表現を見付け
その文章が気になり、何度も読み返している晩。

我々の心の底には知識以上の世界がある。我々の心の底は理智の錘の達することのできない深底である。此処には概念的に限定せられた物と云うものもなければ、我というものもない、すべてがひとつの純なる活動である。固定せる形というものはないが、無限の形を創造する無形の形がある。固定せる色というものはないが、無限の色を想像する無色の色がある。この世界に於いて一々が創造であり、純なる活動である。プロチヌスが全ての範疇を超越した一者の世界を絶美の世界と考えた如く、真の美の世界はこの如き世界でなければならぬ。プロチヌスは高山の頂に登れば天地皆光となると云った如く、この立場に於いては万物全て美となるのである。芸術というのはかかる世界の内容を表現するものでなければなるまい。芸術は言うまでもなく自然の模写ではない、純粋活動の世界の表現である。芸術の対象とする所は自然以上の世界の形相でなければならぬ。フィドレルは我々が視覚に純一になる時、云わば全身眼になる時、自ら起こり来る表出運動を芸術家の創作作用と考えて居るが、右の如き世界の内容を直接に表現するものは、知識以上の表現作用でなければなるまい、否表現作用その者がかかる世界の内容と云ってよいのである。

フィドレルというのは、おそらくコンラート・フィードラーのことではないかと思うが
それ自体がどういう論文かは知らない^^;

西田幾多郎歌集 (岩波文庫)

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March 28, 2010

【夢】

このところ、海シリーズ?(笑)
昨夜見たのは
「月いずこ鐘はしづみて海の底(芭蕉)」とでもいうような夢で
海はとても深いマゼンダ色、ゲーテの言うUnseen Colorの広がり
何故か、海の底に月があり
その光が揺らめくたびに光を帯びて明るくなったマゼンダや
ロイヤルブルーがつかの間浮かんでは消え、浮かんでは消え
梵鐘の音が鳴り響く中で揺らいでいるような
いつか絵か動画にしてみたいような幻想的な情景だったが
それを目覚めては、また同じ夢の中に戻る
ということを何度も繰り返した晩だったので
妙に印象に残って友人に話してみたら
昨夜はフィギュアスケートの世界選手権を見ていたそう。
夢の中の「鐘」「マゼンダ(深紅)」
そして「ロイヤルブルー」というキーワードが
何故かそれとシンクロするようで不思議なこともあるものだなと思った。
恥ずかしながら、世界選手権のことも知らなかったし
五輪は見たけど「鐘」という作品名も知らなかったので^^;
(いかに疎いかの証明ともいふ;;;)
潜在的にそれが意識にあったとは思えない。

こんなこともあるのね…と
実際の彼女の演技を見たくなって
昨日の動画をネット上で探しているうちに
もうひとつ驚いたのがこの映像↓

実は、この曲の作曲者の川井さん
夫の学生時代からの友人だったりする^^;

シンクロと思いがけない繋がりを
ひとつの夢から見つけたりして
ホント、摩訶不思議とは
こういうことを言うのだろう(笑)

が、寝不足でちょっと頭痛気味^^;

【薔薇】

今シーズン、最初に蕾を膨らませたのは
昨年、コガネムシの幼虫に根を食い荒らされて
瀕死の状態だったエレーヌ・ジュグラリス。
今、二つの蕾をつけているから
来月には、きっとまた美しい羽衣を
窓辺に広げてくれるだろうと思う。

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March 21, 2010

沈丁花

昨日、風が強くなり始めた夕方に玄関を出たら
甘美な香りにふいに包み込まれた。
近所のお宅に咲く沈丁花の贈ってくれた春の優しさに
幸福感が広がっていく。
昨夜の嵐の後、沈丁花がどうなっているかが
ちょっと気になって
今日も出かける途中で暫し足をとめた。

風雨に洗われた透明な光の中で
沈丁花は慎ましやかに
でも、強い生命力を漲らせていて
その姿に励まされるような気がした。

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【三昧】

少しスローに過ぎていく時間の流れの中で
心を通り過ぎていくものを眺めていると
通り過ぎていくものそのものを洞察したり
分析・評価するというのではなく
それらによって、どれだけ
今、存在していること、体験していることから
切り離されているのかということが
僅かながら浮き立ってくる。

三昧という言葉があるが
日常的な表現としての
そればかりが続いているというような意味合いでなく
サマーディに由来する仏教的な意味合いの三昧を
フランシスコ・ヴァレラは身体化された心―仏教思想からのエナクティブ・アプローチの中で

「身体としてある日々の経験に心が存在していることを意味する。すなわち、三昧とは、心に関する理論や先入観から、そして抽象的な態度から、経験そのものの状況へ心を戻して導くためのものである。」

と記し、注目している。

三昧の境地に達しようなどという訳ではないけれど
通り過ぎていくものがどのようなものであれ
あるがままに寛ぎ、身体としてあるということに
戻る瞬間を僅かでも持てる余白は
それが唯一の現実であるかのように見えていた世界や
関係性や、「私」として捉えていた自我を
ちょっと違う角度や距離感から
眺めてみる機会を携えているものなのかもしれない。
通過させていくということは容易では無いし
やはり、つい流れていくものに囚われたりもするから
苦々しさも、息苦しさも伴うけれど
向き合うことから逃れ、
自我が生み出すものの中に埋もれていては
やはり、より全的に生きるということは叶わないのだろう。

けれど、それらからもう少し自由になれた時
「私」としてのあり方にも
それを映す動きにも
新たに産声をあげる何かが訪れるような気がする。

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