日曜日、舞台を観に行くまでの道中
持参した本は原初生命体としての人間 ― 野口体操の理論
だった。
もう何回読んだことだろう。
でも数回読んだ程度で読んだつもりになれる本じゃない。
けれども、自分の身体に向かい合う中で
多くの示唆に富んだその言葉の中から
その時の自分の感覚にスッと響くものを
ほんの少しずつ見出しては
自分の感覚の言葉に照らし合わせたり
置き換えたりしながら
何度も何度も噛み締めてみる
そんな奥深い味わいに満ちている。
そして、同じ言葉でも
一昨年の自分、昨年の自分、そして今年の自分で
そこに感じる味わいは微妙に違い
多分味わい尽くすことは無いのだとも思う。
不思議なもので、
昨年も今頃の時期に、舞台を観に行く際に
同じ本を持参していることに今日になって気付いた^^;
読書にも何かそうしたリズムがあるのだろうか。
火曜日は残業が大幅に長引いて
20分くらい遅れてスタジオへ。
最初にウォーミングアップがあるから
何とかその終わりの頃には辿り着いて
バーレッスンには間に合った。
月曜も仕事が無かったから昼間のクラスには出たのだが
先週後半レッスンが無かったせいだろうか
何となく自分の中の感覚がまとまりきらなかった。
仕事から駆け込みのその日は
条件的には月曜日よりきついはずなのだけれど
感覚は素直に繋がっていってくれる感じだった。
自分が身体を動かしやすい
あるいはまとめやすいと感じる時
手足の動きの中心が
ちょうど腎臓の辺りに
体内のムーヴメントの流れの
Xの交点があるように感じられる。
その感覚がある時は
鳩尾もふっと安らぐような印象があって
丹田の辺りの充実感が
身体を持ち上げもし、安定もさせてくれるようだ。
そう、感じて
そういえば以前鈴木先生から
手足を使うとき。
その中心は腎臓。
というアドバイスを頂いたのを
3年近く経って思い出した。
当時もイメージとしては
何となく判ったような気もしていたが
今、自分の感覚からその言葉が蘇って
今更のように、ああ、そうか・・・と思う。
ひとつの外に結んだ像だったイメージが
長い時間を経て自分の中で感覚として実を結ぶ
そうして、少しずつ
私は私の身体と出会っていくのだと感じた。
水曜日はCoolBalletのレッスンへ。
今日は外気功の時間を長めにして下さった。
立ち仕事の影響や、バランスが変わる過程で
どうしても負荷がかかるのか
内腿の深部で一本細い筋がピーンと張ったような感じが
暫く仕事が無いと減少してくるのが
また仕事に出ると張ってくるという感じで^^;
悪化もしない変わりに
なかなかスッキリ消えてもくれないのが悩みの種なのだが
意識が落ちそうで落ちない際のところまで
深くリラグゼーションした状態が続いて暫く経った頃に
まるで捻れて硬く縮んでいたゴムが
ふっと緩み解けるように左足がピクンと反応して
自分でもいったい何が起こったのかとちょっと驚くが
驚いた頃には「一本細い筋がピーンと張ったような感じ」が消えていて
内転筋だけでなく、膝や脹脛や足首、足裏を通ってつま先までが
内側で牽引されている何かから解放されたような心地よさがあった。
そして、すっかりリラグゼーションした状態から
フロアでのドゥミ・プリエとポール・ド・ブラを繰り返しつつ
身体を目覚めさせていく。
床と触れ合う部分の感覚を感じ取りながら
体幹から手足を動かしていく
立体的になっていくボディの感覚と解放された関節
動きの中で自分の中のXのムーヴメントが
内側から帆を張るように身体をまとめ、形作っていくようだ。
その後、センターで2番と1番のドゥミ・プリエを繰り返す。
脚とアームスと体幹と視線とが調和しながら
丁寧に動きを繰り返す中で
何かに突き上げられ、細く絞られるようにまとまっていく感覚が
いつも以上に心地よく感じられた。
続いて、バーでアンクロワのタンジュとカンブレ
最後に短いインプロを踊って終了。
普段お稽古しているお教室の先生にも
先日、ずいぶん身体が真っすぐになったわねと仰って頂いたが
今日もずいぶん身体が引き締まってきましたねと
仰っていただいた。
確かに、秋になった辺りから
また微妙に身体のラインが変わり始めているのは
感じてはいたけれど
ちゃんと見える形でよい変化が起きているなら
今、私が感じていることの方向性は
正しい方向に向かっていると思ってもいいのかなと
ちょっと安堵するような気持ちになった。
帰り道、歩きながら
軽くなった身体、その居心地の良さを
色々な角度から眺めてみる。
いや、味わってみるといった方が良いのだろうか。
そして、そのイメージを描写するように
心の中で言葉にしてみる。
こうして、ブログに書くためには
ある程度は読んだ人に伝えること・・・という面も
考えなければならないけれど
それ以前の段階で、
すでに自分の中に長年刷り込まれた居方や動きに
その新鮮な感覚が引き戻されてしまう前に
私は私のために
感覚という形の無いものに
私なりの言葉という形を与えておくということを
結構している。
それは、自分だけがそこから
その時のイメージや感覚を呼び戻すヒントとして
役目を果たせばよいので
そのまま書いたら、きっと他の人が読んでも
皆目訳がわからない表現かもしれないし(笑)
ある程度まとめたつもりのここの文章だって
実は似たようなものかもしれないが(爆)
でも、そういう自分の感覚の言葉というのを
自分の中で創造してみることも
あるいは、バレエの世界の中で一般的に使われている
「引き上げ」という便利なようでいて
ある種偏ったイメージに陥りやすい既成の言葉というものから
少し離れてみることも
新しい感覚や動きを身につけていく過程では
結構有効な気がする。
そして、今回「原初生命体としての人間」の中で
私に響いてきたのは以下のフレーズだった。
第5章 からだと動き
「とにかく言語化してみないと、せっかくつかみかけたものも、それに似ているすでに言語化されて強いエネルギーをもったものにくっついてわからなくなってしまう。からだの感覚や能力をいわゆる随意化(コントロール)するためには、何としてでも言語化することが先決である。この作業は無限につづく性質のものではあるが・・・・。」
「私にとって、意識によってひとつひとつの筋肉を働かせるという感覚は、いまだにはっきり掴めていない。しかし、それでは駄目だ、とは思っていない。ひとつひとつの筋肉を意識的に働かせることが、人間にとって大切とは思っていないからである。その動きにとって適切なイメージによって動くのである。ひとつひとつの筋肉を動かそうとするのではなく、からだの中身の関係において動くのである。」
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